今回の投稿文(Q坂本幸雄:古関裕而に想う。2020.9.1 )を読ませて頂き感じたことは以下の通りです。
1. 古関裕而の名は我々の世代には余りにもよく知れわたっているが、本文に列挙された数々の親しい曲(戦前・戦後を通して全てが)古関裕而の作とは知らなかった。僕が今記憶の中で唄える僅かな数の古い歌は全て古関裕而作曲かもと思うほどである。
2. 戦前・戦中の歌は特によく覚えているが、これらは1945年8月以前、即ち国民学校低学年の頃、学校で音楽の時間以外の授業でも叩き込まれたからだろう。国を愛し戦争を謳歌するものが殆どだが、何の疑問も抵抗も感じず一生懸命唄っていたわけだ。我々子供たちは未だ批判精神がなかったはずだから、それは当然のこととしても、父や母も常に一緒に真剣に合唱してくれていた記憶が残っているが、当時は政府の方針を批判するという精神が日本人にはなかったのだろうか。今やこの疑問を訪ねる相手はこの世に居ないからわからないが、僕の両親はそれほど阿呆ではなく、当時のインテリだったと思うのだが、一億の日本人がみな同じ気持ちだったのだろうか。
3. でも戦前の歌詞は今読んでみても、人間として大切な道徳や勤労精神が強調されており、日本人の魂を鍛える為に大事な役割を果たしていたと思う。戦争謳歌の個所だけ削除して、これらの軍歌を、今のだらしない(アメリカの個人主義と物質文明に毒された)日本人の間で流行させたいと思うのは自分だけだろうか。このまんまの状態が続くと、大日本帝国が支那の属国になるのも時間の問題かも。個人の基本的人権と自由を大事にし過ぎている現行憲法下では、総理大臣も今回のコロナの如き有事に際して国民の行動の自由を制限する命令が出せない(「自粛のお願い」を出すのが精いっぱい)のようでは、経済大国ではあっても世界の強国にはなれないだろう。
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4.「苦難の時代より若干後に生を受けたわれわれの世代は、何よりもそのような艱難辛苦の体験から免れ得たことに深く感謝しなければならない」点に関してだが、我々より若干前に生を受けた先輩方は戦時中どのような艱難辛苦の体験をされたか具体的な話を聞いたことはない。我々が社会に出た頃、企業で上司として指導してくれた人たちはその体験者だろうが、僕が戦後の平和な社会で接した限りでは、肝が据わった人間的にも立派な方々が多かったように記憶する。即ち厳しい軍事教練は日本の青年の人格形成に著しく貢献したと前向きな解釈もできるのではなかろうか。
5.戦後の歌は未だテレビのない時代に流行った映画かラヂオドラマの主題歌である。列挙された7首のうち「鐘の鳴る丘」と「とんがり帽子」は同じ曲(前者がドラマの題名で後者はその主題歌名)だが、これがラヂオで約3年間連続放送されたのは中学生時代だったと記憶する。主人公の戦災孤児たちが可哀想で可哀想で、自分と兄弟姉妹が孤児にならなかったことを神に感謝しながら、涙を流しつつ聴き入っていたものである。今の時代こういう子供向き純真なドラマは流行らないだろうな。
6.有名な阪神タイガースの応援歌が古関裕而の作曲とは意外。彼は終始阪神ファンだったということか。作詞は誰なのだろう?他の球団にもこういう有名な作曲家が応援歌を作っているのだろうか、そういう球団別リストがあると面白い。僕は高校途中まで愛知県(豊橋市)に居たから、今でも熱心な中日ファンだが、応援歌は誰が作ったのか知らない。
7.僕は最近NHKの朝ドラは観ていない。数年前までは毎朝の楽しみだったが、痴呆が進みドラマに出てくる登場人物間の関係把握が困難になり、テレビドラマからは完全に遠ざかってしまった。連続ドラマは特にそうだが、一回限りのドラマや映画すら老人の楽しみの範疇から消えてしまったのは寂しい。今はその場限りの報道番組等をポカンと観ているのがぼけ老人には気楽である。
8、筆者は以前に(十数年前)日露戦争につき興味深い論文を書いておられたが、次回はノモンハン事件から大東亜戦争への流れについて一橋33ネットで発表してほしい。
以上