読書遍歴(20)『風にそよぐ葦』人と作品
パスカルの『パンセ』(随想録)には以下のような一節がある。
「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。一つの蒸気、一つの水滴もこれを殺すのに十分である云々」。古人は、下腹から上昇する蒸気がありこれが脳神経を犯すと考えていた。(津田穣訳)
パスカルはこのように述べた後、以下のように続ける。―だが宇宙は何も知らないが人間は考えることができる。人間の尊厳はそこにあり、人間はそこから立ち上がらなければならない。だからよく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。
石川達三の『風にそよぐ葦』の題名はこのパスカルの言葉から取られたと思わずにいられないがパスカルの文章のこの周辺を探しても「風にそよぐ」という言葉は見つからない。石川は『生きている兵隊』で中国戦線(上海から南京まで)を描いて告発から起訴に至る筆禍事件を起こしているがこれもまた優れた題名だと思う。作者は「生きている」とは「死を目前にして生き残っている兵隊」と「真実の人間らしき兵隊」という二重の意味を持たせていることを明かしている。
戦時中の常軌を逸した報道統制のために銃後の国民は戦争の成り行きをまったく知らないどころか敗北を勝利と教え込まれて戦争に協力した。少しでも事実を伝えようとした雑誌は政府の忌避に触れそうな箇所は伏字で覆い隠すことによって対応したがやがては廃刊に追い込まれた。
大新聞も報道統制を唯々諾々として受け入れるはずはなかった。しかし報道内容に関して常時政治的な圧力にさらされ、新聞用紙の配給制度で締めあげられて、廃刊、失業よりは妥協による存続を選んだ。反面では、知識階級を対象とする総合雑誌に比して一般家庭に広く浸透している新聞は政府による世論操作にとってもっとも有力な手段であった。『改造』、『中央公論』などが紆余曲折の後に、最後は廃刊に追い込まれたのに対して大新聞は用紙不足などによって、統合はされても、すべてが生き残ったのはその何よりの証拠である。
新聞は抵抗どころか積極的な政府の報道機関に成り下がって行った。「記者クラブ」は大本営発表をそのまま口移しに報道したのである。記者クラブの鵺(ヌエ)的性格は今日も変わっていない。政権と記者クラブの取引関係は存続しており、民主党政権が記者クラブの特権を取り上げようとしたことが大新聞の論調を反民主党的に変えたという説すらささやかれている。
『風にそよぐ葦』下巻の冒頭には有名な「竹槍事件」が出てくる。陸軍当局は「敵もし上陸し来たらばこれぞ好機、一人一殺主義、竹槍をふるって万世一系の皇国を守護すべきである」と宣伝していた。これに対して毎日新聞の新名丈夫記者は「竹槍では間に合わぬ。飛行機だ。海洋飛行機だ!」という見出しの記事をのせ、「敵が飛行機で攻めてくるのに竹槍を以てこれと戦うことは出来ないのだ」と反論した。この当たり前の反論に激怒した東條首相は執筆した記者を厳罰に処することを命じたのであった。
新聞はその日の夕刻、発売禁止の処分に付され、執筆した記者は敗戦思想の持ち主であるから処分せよという命令が出された。新聞社は、編集責任者は処分したものの執筆者の処分を拒否したが、翌日には執筆者の本籍地を問いただされ、新名丈夫記者は37歳にしてその郷里、高松市の市役所から電報で丸亀連隊への召集命令を受け取った。「全陸軍を掌握している陸軍大臣兼参謀総長が、彼みずから徴兵制度を懲罰に利用したのであった。」この事件はしばしば愚劣な軍部に対する報道界の抵抗を示す好例として伝えられるが石川の著書はこれに加えて、その背景にあった陸海軍の戦略をめぐる対立を伝えている。海軍上層部は新名へ救いの手を伸ばし高松連隊との間で招集解除を取り付けるが、東条首相の「執拗蛇の如き復讐本能」はこれに再招集を持って応じたのであった。
報道機関への言論統制は明治維新直後1875年に制定された新聞紙条例と讒謗律(ざんぼうりつ)に始まる。新聞紙条例は日露戦争後の1909年に格上げされて新聞紙法となり、讒謗律は5年後に刑法に吸収され、廃止された。印刷術の向上や教育の普及とともに部数を拡大した新聞、雑誌の歴史は新聞紙法を抜きにしては語れない。しかし、言論の統制が一段と厳しさを増して行くのは盧溝橋事件(1937年7月7日)以来である。言論統制の一元化をめざす内閣報道部が設置されたのは1937年9月25日である。11月には宮中に大本営が設置されその中に陸海軍の両報道部が設けられた。「こうして世情は一変し、言論への当局の目はいっそう厳しく光り出し、軍主導の政治時代に突入したのである。思想戦の名のもとに、言論取締りは言論指導へと変っていく。」(半藤一利「生きている兵隊」の時代)
報道統制のもとで国民は盲目の状態に置かれた。彼らとは関係のない「金甌無欠」であり「万世一系の皇統」などという美辞麗句に彩られた「伝説の美しさ」に迷わされて国民は生活や財宝や生命のことごとくを犠牲にしたのである(上記石川著271頁)。報道統制の副産物の一つとして、とりわけ敗色が濃厚になるにつれて流言飛語が広くささやかれるようになった。国民は生活に苦しむ一方で戦況の真実を渇望していた。年端の行かない子供の世界では、蒙古の使者を切り捨てた若き北条時宗が楠公父子に次ぐ英雄とされ、子供たちはふと我に帰った時に、神風はいつ吹くのだろうかと夢想したのだった。
GHQは1945年9月27日付覚書で日本政府に対して、新聞紙法、国家総動員法、国防保安法、軍機保護法など平時または戦時に報道の自由を制限する法令の条項を廃止するように日本政府に命じた。この廃止すべき法律のリストとしては12の法令が上げられたが、それぞれを所管する機構が鋭意報道と言論の統制に当たっていた。(煩瑣にわたるので割愛したがこれらの法律は河原理子『戦争と検閲 ―石川達三を読み直す』254頁で見ることができる。)政府はこの指令に従ったが(45年10月に廃止)何故か新聞紙法だけが生き残り廃止されたのは4年近く後の1949年5月であった。この遅延は後に示す横浜事件に多大な影響を及ぼしている。
日本国憲法第21条は〔集会・結社・表現の自由・検閲の禁止・通信の秘密】について以下のように規定している。「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。②検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」2012年、当時野にあった自民党が公表した「日本国憲法改正草案」は「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」という一項を加えて、これを②とし現行の②を③としている。
石川は1938年9月5日に禁錮4か月執行猶予3年の判決を受けたが、それは『生きている兵隊』が「皇軍兵士の非戦闘員の殺戮、掠奪、軍規弛緩の状況を記述し安寧秩序を紊乱する事項を執筆したからであるとされた。自民党提案の条項②はオウム真理教に破防法が適用できなかったことを踏まえて追加したと説明されたが「公の秩序」とは何かを具体的に示す必要がある。石川が紊乱したとされる「安寧秩序」との差はどこにあるだろうか。石川の記述が安寧秩序を乱したかどうかも問うことができる。
アメリカ本国はもちろん、ハワイ、シドニー、カルカッタ、上海の放送局から、昼夜を問わず短波放送が米国の優勢を伝え、日本の戦闘力の行き詰まりを宣伝していた。ところが日本国民は短波放送を聞くことを厳禁されており日本政府と軍部の報道以外を聞くことができなかった。短波放送を聞くことができるのは陸海軍の作戦と戦略宣伝を担当する部署、外務省、同盟通信、放送局、それに艦隊司令部の無電室だけであった。これに軍機にかかわった皇室のメンバーが加わる。短波放送の伝える外電情報がこれらの特権的な人々の周辺へ漏れ伝わったことは間違いないとしてよいだろう。それがさまざまな伝えられ方をして流言となり飛語となった。
言論、思想統制の網の目と並んで、あるいはそれ以上に猛威を振るったのは「治安維持法」である。非合法の革命運動のみを対象とし、濫用の恐れなき法律という触れ込みで1925年に成立した治安維持法は数次の改正を経て共産主義思想の取り締まりに止まらず、共産主義、社会主義とは関係のないキリスト教その他類似の宗教までも取締まるようになった。その治安維持法の行使に関して国民に与えられる情報は、新聞紙法などの報道統制法によって自由にコントロールすることができた。治安維持法関係の事件が生じても検事が報道を差し止めるのが常態で報道は検事側が時期を見計らって解禁された後に当局が発表する記事が掲載された。
治安維持法の手足となって活動したのが特高(特別高等警察)である。彼らの残虐な手口は代表的なプロレタリア作家の小林多喜二の逮捕当日築地警察署での3時間に及ぶ拷問の末の殺害によって知ることができる。警視庁は同日に死因を心臓マヒと発表した。多喜二の代表作は『蟹工船』であるが処女作とされる『一九二八年三月十五日』には特高の拷問の様子が詳述されており、特高はそこに描かれた手口に輪をかけた報復をした。ノーマ・フィールドの『小林多喜二: 21世紀にどう読むか』には小さいながら多喜二の悲惨な惨殺死体の写真がある。
奥平康弘(故人、東大名誉教授)は治安維持法はその誕生からその死にいたるまで、基本的に批判から自由であったとして次のように述べている。「そもそも、法律というものは権力に枠付けを与えるという点に本質があるはずですが、こと治安維持法に関しては、権力に枠付けを与えるような規定になっていなかったという規定自身の欠陥があります。ところがそれだけでなく1935年頃になると、運用をする連中は、本当は刑法の専門家であるはずの検事でさえも、内務省の役人や特高と一緒になって、『法律の枠をほとんど考えなくてもいいのだ』という受け止め方をするようになります。」(『横浜事件―言論弾圧の構図―』岩波ブックレット)
治安維持法で懲役5年の実刑が下された河上肇は鈴木義男弁護士の勧める控訴を断って刑に服したが鈴木の弁護について「自分のような罪状の明白な者の弁護がどうしてできるだろうかと思っていたが、さすがは東北大学の刑法教授までしたことがあるだけに、鈴木弁護士の弁論はドイツの刑法学者の新しい学説などを引用して主力を法理論で固め、ただお情けに縋るという風なものではなかった」(河上肇『自叙伝』)と述べているが、これによっても治安維持法下の裁判の性格を推し量ることができる。援用する法律も軍機保護法、国防保安法、国家総動員法など、よりどりみどりであった。
治安維持法がどのように猛威を振るった存在であったかは、特高が長期にわたって被告の身体に及ぼした暴力によっても知ることができる。その暴力の前には言葉の暴力があり、そこにはしばしば小林多喜二の拷問死への言及があった。「てめえは小林多喜二がどんな死に方をしたか知ってるか……検事局でもな、共産主義者は殺してもいいってことになっているんだ」(海老原光義の証言)「小林多喜二を知っとるか。生かしちゃ帰さぬから覚悟をしろ」(木村亨の証言、いずれも『横浜事件―言論弾圧の構図―』)『横浜事件』は獄死者4名、保釈直後の死者1名、取調べ中の気絶者13名、負傷者31名という。
生き残った被告の1人、畑中繁雄は奥平教授の言葉を裏書きするかのようにして次のように述べている。「警察も検事も裁判官も、少なくとも思想事件についてはみんなグルだった」し、「天皇制国家体制を守るための官吏としては警察・検察・裁判所の三者は性格の相違があるわけがなく、逆にむしろ三位一体として思想犯に対処すべきものであった」。「…死ねば元も子もなかったろうといって慰めてくれる友人もある。しかし、あのとき拷問に屈服したという悔恨だけはついに消えさることなく、今日も心中に疼く」。
石川達三の『風にそよぐ葦』は戦後間もなく、まだ占領下の毎日新聞に前編(1949年4月~11月)と後編(1950年7月~51年3月)が8カ月の間隔を置いて2度にわたって連載され、その後単行本として刊行された長編小説である。時代背景は「ハルノート」によって日本が米国との開戦を決意する時から太平洋戦争の主要な局面を追いながら敗戦をはさむ横浜事件にまで及んでいる。主だった登場人物に葦沢悠平と清原節雄がおり、それぞれ中央公論社社長嶋中雄作、リベラルな外交評論家清沢洌(きよし)がモデルとされる。主題は『改造』、『中央公論』両誌の廃刊に至る言論統制下の苦難といえるが、気の合ったこの2人は戦争と思想統制に心を奪われていて小説の主人公としては躍動感に乏しい。その意味で小説としての主人公は、葦沢祐介の二男泰介の嫁榕子と社会主義者である泰介二等兵を軍隊で瀕死の状態に追い込む広瀬充次郎軍曹だといえるかもしれない。葦沢榕子(旧姓児玉)には誰しもが、一途な女心の不可思議さを教えられるのではないだろうか。
著者の石川達三は、嶋中雄作はもちろん清沢洌も個人的に知っていた。清沢の残した『暗黒日記』(橋川文三編ちくま学芸文庫全三巻など諸版)には石川とゴルフをした記事がある(43年6月24日)。またその日記には石川が毎日新聞に寄せた「言論を活発に 明るい批判に民意の高揚」(44年7月14日)と題する記事の切り抜きが保存されていて、「これは、現在、いい得る最大限の表現である」と評している。石川と親交のあった文芸評論家久保田正文によれば、このような東条内閣でも言葉としては存在した「言論暢達」の実質を求める文章は『改造』や『中央公論』への弾圧に触発されたものであり、このモチーフが戦後の「風にそよぐ葦』へつながっていくのである。
横浜事件の口実に使われたのは総合雑誌『改造』の1942年8月号と9月号に掲載された「世界史の動向と日本」と題する細川嘉六の論文であった。検閲にかからぬように編集部が厳重にチェックした論文は情報局の検閲をパスしたものであった。それが事後になって発売禁止処分となり、まず細川が身柄を拘束されたのである。これは陸軍報道部の平櫛少佐の差し金であったがその7か月後、平櫛の後任杉本少佐は『中央公論』に攻撃の矢を向けた。陸軍当局が全雑誌の3月号の表紙に陸軍記念日の標語「撃ちてし止まむ」の掲載を依頼したのに『中央公論』一誌だけが協力しなかったことを問題にしたのであった。
杉本少佐は同時に同じ『中央公論』に掲載されていた谷崎潤一郎の『細雪』を「国民の戦意を阻喪させる無用の小説」と決めつけ『細雪』を休載に追いやっている。谷崎はそれでも私家版の執筆を続け1948年に作品を完成させた。私は第二次世界大戦期の国民生活をリアルに描いた小説を探し求めているが『細雪』が描くのは1936年秋から1941年春までの大阪の旧家を中心とした人間模様で、戦場の硝煙はもちろん銃後の生活を思わせるものはなかった。
これとは対照的に『風にそよぐ葦』はいきなり、「外務省の正門の、大きな鉄格子が取り外されてあった」という文章で始まっている。外務省のアメリカ局長はそれを「大砲の弾丸(たま)を二、三十発こしらえるんですよ」と皮肉な笑いを洩らして説明する。このようなことは歴史書からは伝わらない。われわれはアルミの弁当箱を寄付して竹製の組み立て式の弁当箱などを使ったのであった。嶋中雄作や清沢洌が住む世界は庶民とはまた別の世界ではあるがそれでも彼らは厳しい戦時下を生きている。しかもそれは子供たちまでが銃後を意識するようになる以前の『生きている兵隊』に続く時代でもあった。
『生きている兵隊』は上海や杭州湾から南京へと続く戦闘の記録である。幻と消えかねない南京の惨状がリアリズムを身上とする作家の筆によって再現される。今これを読むと、街上に瓦礫の積み上がったパレスチナ・ガザ地区の映像と無縁ではないと思わざるを得ない。石川達三はこの2つの作品によって貴重な記録を残してくれたのではないだろうか。これらの作品の脈動は今に続いている。
石川は晩年になって、『風にそよぐ葦』を「戦時中の国家権力や軍部に対する私の小さな復讐」と呼んでいる。この作品はしばしば社会小説と形容される。他方、石川の処罰の対象とされた『生きている兵隊』にはドキュメンタリー小説という評言がある。これらの作品は、私にこれまで述べてきたような報道や言論の自由についての考えを刺戟して止まなかった。ところが現代の文学史上での石川達三への言及は極めて乏しい。日本の文芸の歴史ではプロレタリア小説が頓挫してこの方、心境小説とでも言うべきものが主流で社会を描写した小説はついに主流には乗り出せなかった。終戦の翌年、6月25日の石川の日記には以下のような記述がある。「いま私の胸は痛い。私は事件を描いてきた。最初は人間を描くために事件を選んだが、終(つい)には人間よりも事件に追われてきた。そうして小説の本道をふみ外し、ふみ外すのを当然と心得ていた。(……)事件に芸術性はない。芸術は人間に即し、人間の内のみにあるのだ。その単純なことを忘れていたようである。」
この引用は先にも引用した川原理子(みちこ)『戦争と検閲 ―石川達三を読み直す』からの再引用である。この著者が「読み直している」のは『生きている兵隊』であり、内容は主題の示す通り、そこに焦点が集中するまでの「検閲」の歴史である。石川は1938年3月16日に拘束されるのだが、ここで紹介したいのは石川の日記(1938年3月5日)に記録された、差し押さえ漏れの雑誌を回覧した文芸家たちの反応である。「内田百閒は『憂国の一大叙事詩だ』といった由。斎藤茂吉は『事変関係文学として唯一つ後世に残るものだ』といった由。武田鱗太郎は感激したと語り、小川五郎は日本にはなかった文学だと称した。」
ここに見える自負心に比べれば、なお創作への意欲を持ちながらそこからの心理的な落ち込みを見せた戦後の石川の小説作法は変化するはずであった。しかしそこから立ち上がった石川の次の主要な作品は、人間を描くための努力は明らかであるが『生きている兵隊』よりもさらに広く社会性を増した『風にそよぐ葦』であった。それはいつの時か石川の身についた業のようなものかもしれない。
『生きている兵隊』についてはすでに紹介した河原理子の研究書の他に半藤一利(中公文庫)のすぐれた解説、久保田正文(新潮文庫)の著者の身に添った文庫本掲載の解説がある。久保田は石川の従軍が南京陥落後の12月21日からで上海ー蘇州ー南京ー上海をへて翌年1月下旬に帰国したと記している。河原は石川の日記にもとづいて、旅程はこの順だがさらに詳しく、12月30日軍用船台南丸で神戸港を出て、数日の船中碇泊の後、翌1938年1月5日に上海に上陸した。上海から帰途についたのは同月20日であるから計2週間強の中国滞在で、うち南京は1週間 (8日着、15日発)ほどである。また『風にそよぐ葦』については井出孫六(岩波現代文庫)の解説がある。これらの解説に漏れなく共通していることは第1回の芥川賞(1935年)を受賞して芥川賞の声価を高めた石川の処女作『蒼氓』(そうぼう)の解説から書き起こしていることである。太宰治はこの回の選にもれたことで知られるが、『蒼氓』は長らく絶版になっていたが秋田魁(さきがけ)新報社(秋田は石川の郷里である)が2014年に再刊している。
高崎隆治は『戦争と戦争文学と』(日本図書センター、1986年)の中で『生きている兵隊』を強く批判している。高崎は同じ頃にベストセラーとなって世に持てはやされた火野葦平の『土と兵隊』や『麦と兵隊』が実際に従軍した兵士の記録であるのに対して石川のものは戦跡を追って南京に到達した従軍記者の創作に過ぎないという。そしてその上で、火野と石川の決定的な相違は、石川が残虐な否定的行為を、終局的には戦場における必要悪として肯定しているのに対して、火野は行為それ自体を決して肯定しないことであるという。これは宮本百合子が、この作品を観念的な小説だとして『内面的モチーフなしに意図の上でだけ作品の世界を支配してゆく創作態度が目立っている」という批判に同調するものである。
中野重治は戦後に、石川は「これ(殺人・掠奪・暴行等)をいいこととしては認めていない。しかし、これも戦争のなせるわざとして、その限りでは放任して肯定するところへ進んでいる。掠奪、暴行、放火、殺人、拷問を通じて、武官も兵士も、専門の学者も、僧侶も、そのあらゆる才能、インテリジェンス、人間性を破壊されて行く過程を無感動に肯定して認めている。才能とインテリジェンスと人間性とをこのように変化させて行く日本側の戦争そのものの性格にはまったく目をむけないところにこの作の眼目があるわけである」と述べている。
この2人の指摘する残虐行為の「肯定」には微妙な差がある。中野の指摘は「なるほど、この小説はこのように読むべきものか」と思わせるものがある。厳しい道徳的感性、あるいは思想性の欠如である。中野が指摘する武官から僧侶まではすべてこの作品に登場する人物である。軍人としての彼らの、人間性を逸脱した行動を描写すること自体が、たとえ十分に明確とはいえないまでも、「人間性を破壊されていく過程」の批判になっていないだろうか。兵士は往々にして無言で死に向かって突進する。これらの兵士の時として奇矯な行動に作者の苦渋が投影されていると言えないだろうか。いずれにせよ、兵士らの言動を伝える石川の筆力は宮本のいう「観念的」とはほど遠い。
高崎はまた、南京大虐殺が起きさえしなければ、(石川には)発禁処分だけで禁錮刑の判決は下らなかったに違いない」という。「逆な言い方をすれば、大虐殺をもし知っていたならば、彼はこういう作品は書かなかったに違いないのである」という。後に述べる英紙の報道などからすればそうとばかりは思えない。河原理子の著書にある、きびしい尋問に対する石川の返答、また石川の日記によってみれば、石川は言論を束縛する各種の法律について知るところが少なかった。いずれにしても石川は、聖戦を遂行する厳しい軍律の下にあるはずの皇軍の名誉を、十分かつ明確に傷つけているのである。
河原理子の『戦争と検閲 ―石川達三を読み直す』の主題は当然ながら石川達三ではなく「戦争と検閲」である。しかし石川達三を論ずる者にとってこの本は必読書と言ってよい。石川は新聞紙法違反で有罪になっている。しかし、高崎は読んでいないに違いないが、河原によれば、「聴取書」を見る限り陸軍刑法違反が取調べの中心だったことがわかる。陸軍刑法の第99条は軍人以外の者も対象にして「造言飛語ヲ為シタル者ハ三年以下ノ禁固ニ処ス」となっていた。
石川が拘束されたのは1938年3月16日、第一審の判決(禁錮4か月、執行猶予3年について検事控訴)は9月5日であるが、読売新聞3月27日の夕刊は『生きている兵隊』が「(アメリカで)英訳され出版されようとするところをわが領事館で取押え、翻訳本数千部を押収したという情報が二十五日外務省にもたらされ関係当局を驚かせた」と伝えている。また29日の都新聞には、中国の新聞に抄訳が連載されているという記事が大きく報じられた。この連載をもとに出版された『未死的兵』(上海雑誌社)は京都大学文学部が所蔵している。また6月には『活着的兵隊』と題したものが上海文摘社から出版されていることも知られている。このように石川の作品は、著者の意図にはお構いなく、国際的な反響を呼んで広く流布したことが窺える。
南京事件はまず、英国マンチェスター・ガーディアン(現、ガーディアン)の特派員であったH.J.ティンパリー記者 の英文による報道でたちまち世界に広まった。ガーディアン紙のアーカイヴによれば、1938年1月16日のティンパリー記者の第一報は「ある有能な外国人の見るところでは、揚子江デルタでは30万人を下らない民衆が情け容赦なく殺戮された」というものであった。揚子江デルタは南京を含む広大な地域である。日本軍が侵攻した上海から南京を経てさらに上流に遡上する流域一帯である。ガーディアンは、「南京で30万人」という数字はこの電文をコピーした日本大使館が「揚子江デルタ」への言及を見落としたことから生まれたものと言う。現在、中国政府はこれをもとにして30万人の「南京大屠殺」を公式の見解にしている。
ティンパリー記者の第一報は石川が南京を去って上海に到着した翌日、石川が警察に拘束される2カ月前のことである。戦後、おそらく1970年代に入ってから、日本では「南京虐殺まぼろし説」が浮上し、教科書検定問題を巻き込んで大きな話題となり論争を呼んた。論争はもっぱら日本人の間で行われ海外の情報のインプットがなく、事実は別として、虐殺の人数にこだわったまま暗礁に乗り上げている。石川のその頃の動静は明らかではないが、1975から77年までは日本ペンクラブ会長を務めている。石川は当然この論争に注意を引かれていたに違いないがこの問題について何かを語った形跡は見つからない。1985年1月、石川は胃潰瘍のため都内の病院で亡くなった。(24/08/22、翌23日推敲)