33年ネット諸兄姉どの(2024.09.04)
今日は阿部謹也君の十八回忌である。
「世間をお騒がせ、ご迷惑をおかけしました。心からお詫び申し上げます。」は、謝罪の常套用語であるあるが、この言葉は永遠に続くかもしれないが、個人間の世間は、通信システムやグローバル化によって、徐々に希薄になり、特にコロナ騒ぎでは、ますます、希薄になって来たと思う。結婚に関し、政府が10代から30代を対象に行った調査で、既婚者の4人に1人がマッチングアプリで結婚相手と出会ったと答え、最も多くなったと伝えている(NHK2024.08.26)。
彼の「日本人の歴史意識―世間という視角からー」(2004.1、岩波新書)を読みなおした。彼はドイツ中世史が専門であるが、日本史の領域に入り、鋭く批判した勇気には敬意を表せざるを得ない。この本をざっと抜粋してみた。彼は、「阿部謹也自伝」(2005.3.25株式会社新潮社)の中で固有の問題で頭を悩ませことがある。それが一橋大学の「キャンバス統合問題」と教養課程の改革問題、そして学長選考問題である(同書p222)と書いている。そこで教養課程の改革問題はわたしの理解外なので「キャンバス統合問題」、「学長選考問題」ついて彼の思い出として書いた(33年net、諸兄姉どの、2022.9.4)。わたしは彼を「偲ぶ会」二次会で思い出をかたり、最初の授業・最後授業附・追悼文(阿部謹也追悼集刊行の会、2008.9.4、日本エディタースクール出版部)で「火中の栗を拾う」を書いている。
★「世間」とは何か
「世間」をどのように定義するかは大きな問題である。現在使われているこの言葉の意味と歷史的にこの言葉が用いられていた経緯という二つの点から考えてみたい。
現在「世間」という言葉が使われている意味は大体以下のようなものであると見てよいだろう。「世間」とは人を取り巻く人間関係の枠であり、現在と過去に付き合った全ての人々、将来付き合うであろう人を含んでいる。原則として日本人だけであり、外国人は含まれない。「世間」には贈与•互酬の原則があり、長幼の序、そして時間意識の共通性という特微もあることは上述した。贈与•互酬の原則とはたとえばお中元やお歳暮、そのほか何らかの世話になった時に贈るお礼の品などに見られるものであり、日本人の行動の原則の一つである。時間意織の共通性 , 先日は有難うございました」とか「今後ともよろしくお麒いします」などの科白に見られるように相手と同じ時間の中で生きていることを前提としている関係の表現であり、このような科白は欧米人の間には存在せず、日本人固有の表現となっている。「世間」は日本にしかないからである。そのほか「世間」には生者だけでなく死者も含まれていることを忘れてはならない。さらに「世間」は自立した西欧的な個人を主体とする関係ではなく、呪術的な関係も含んでおり、一人一人の人間は「世間」のなかでは全体と密接な関係をもって生きている。この点は 、すでに歴史的な関係であり、別に諭じなければならない。
日本で生れた個人という言葉は「世間」という固い外皮に覆われていたから、ヨーロッパのように国家や社会の側からの抵抗もなく、受容れられたのである。
★ダブルスタンダードの社会
こうして日本は明治以降近代化を標榜しながら、その内側に古い「世間」という人間関係をかかえてダブルスタンダードの社会として形成されたのである。諸外国に対しても近代化を正面に掲げていたから、その内側に古い人問関係を維持していることを隠し、私たち自身も建前としての近代化のもとで、「世間」を正面に出さないようにして暮らしていた。ところが明治維新によって「世間」も一つの転機を迎えていたのである。
★教育勅語(1890年 (明治23))
「教育勅語」には父母に対する孝養、兄弟姉妹の 親しみ、夫婦の愛情、知能の啓発、国法の遵守、国のために戦うことが挙げられている。しかし個人の尊厳などは全く見られないのである。ヨーロッパが近代になって大きな文明圈を確立しえたのは、まさにこの個人の尊厳を確立したことによっている。ヨーロッパが ヨーロッパとなったのはまさに個人の位置を確立しえたためなのである。そこで巖谷小波の提案がこの時点でどのような意味をもちえたのかを知るために、これまで略述してきた日本の「世間」の歴史をヨーロッパの歴史と対比してみたい。
しかし、ヨーロッパでは」個人という観念がうまれてから個人が社会的にその存在を主張しうるようになるには数百年を必要としたのである。社会も国家も個人を認めず、否定しようとしてきたからである。しかし日本では明治十七年に個人という訳語ができてから、わずかの間にこの 言葉は普及していった。日本には古くから「世間」という桎梏があり、個人はその枠に縛られて本来の自由を亨受し得ないのだが、 ヨーロッパの個人の実際の姿を知らない多くの人々は個人という言葉に満足して、それが「世間」という枠の中で窒息させられていることに 無関心であった。
★新しき制度と旧来の人間関係
明治11年には昌平坂学問所を中心にして大学校が設立された。それは国学を中心として洋学と漢学を左右に置くという形を取っていたが、国漢洋学が対立してやがて閉鎖せざるをえなくなった。政府はその後1877年に東京大学を設置し、工部大学校や法学校が単科大学として置かれていた。1886年にそれらは帝国大学に統合された。すでに1868年慶応4年に中央官制が定められていた。総傍局のもとに神祇、内国、外国、海軍、隙軍、会計、刑法、制度の8局が設置された。
華族と士族、平民の三族籍も定められ、一応四民平等という方向が示され、版箱奉還、排藩置県などの一連の政策が実行された。1873年には地租改正条例が定められ、土地の売買も解禁され、同年に徴兵令も出された。明治11年には大蔵省が設置され、富岡製糸工場の創設から鉄道の建設、郵便創度の開始など一連の近代化政策がやつぎばやに実施された。中でも明治新攻府にとって重要だったのは神道の復興であった。神祇官がまずおかれた所以である。このような政府の動きに対して福沢諭占をはじめとして中村真直やや西周らが西欧の文化を受容れようとし、「明六 雑誌」などによって 西洋事情の紹介を続けていた。中でも中江兆民は1874年にフランスから帰るとルソーの「社会契約論」を翻訳し、政治的自由を主張していた。それに対して三宅雪嶺らの国粋主義者たち 論陣を張り、両者の対立ははげしいものになろうとしていた。すでに見たように1890年 (明治23)に教育勅語が発布され、国枠主義的な立場に立った方向が示された。そこでは個人の問題よりも天皇や国家が先行することが明確にされていた。しかし文明開化の波は庶民の生活にも及び、明治四年 (1871年)に断髮•脱刀令が出され、次の年には官吏の大礼服、礼服の制が定められた。軍隊と鉄道、 郵便、学生などの制服も洋服で統一され、洋服は国民の間に急速に広まっていった。こうして西欧風の文化が日本に定着するかに見えたが、教育勅語に示されているように、国家と家族を中心とした体制が上から定められ、近代化の歯止めとなっていた。なぜなら家族は個人に解体されず、旧来の形を留めていたから、明治国家のもとですべての制度は旧来の人問関係を存続させていたからである。旧来の人間関係は「世間」という枠の中で存続していたのである。
★官学アカデミズム(久米邦武)
官学アカデミズムと呼ばれるこれらの史学において最初は天皇や国家神道に関する研究は大幅に制約されていた。その一例として久米邦武の事件を挙げることができる。久米邦武は佐賀藩の出身で、岩倉使節団とともに訪欧し、その公式報告告を編纂した。その後修史局の編集官となり、やがて文科大学教授として国史科で講義をもっていた。久米邦武はリ—スから学んだ実証史学の学風にたって、水戸の『大日本史』や頼山陽の『日本外史』の「大義名分論的•勧善懲悪史観」が依拠した史実を批判的に考証し、人々から「抹殺派」と呼ばれた。「太平記は史学に益なし」が『史学雑誌」に発表され、さらに「神道は祭天の古俗」が発表されると神道者たちの反撃を呼び、大学を辞めざるをえなくなった。
★「世間」との闘い、日本独自の個人観
しかし、「世間」のなかの人間関係も含めて自分の周囲の「世間」を歴史とし捉えることもできるはずである。そのためには「世間 」と無自覚のうちに一体化している現在の自分を「世間」から解き放たなければならない。そのとき明治以来の知識人が行ってきたように、西欧の個人という概念によって「世間」を観察する仕方では「世間」の内実に届かないだろう。借り物の西欧的個人では「世間」の実質を捉えることはできないのである。むしろ「世間」と対峙する中で日本独自の個人が生れる可能性があるだろう。「世間」と対峙する中で生れる個人は「世間」をも歴史として見ることになるから、「世間」の中で生きる私たちの苦しみもやわらげられるかもしれない。
★菊と刀―日本文化の型―(上巻・下巻)1948年ルースベネデクトー日本人が平な「菊作りに秘術を尽」くす人々であり、しかしまた「刀を崇拝し、武士に最高の栄誉を帰する」、「恥を嫌う」。
タテ社会の力学社会の人間関係―単一社会の理論(1987年)中根千枝―インド文化を背景に日本の社会がタテの構造を見出す。
日本人とユダヤ人(1997年)―ユダヤ社会から日本を見るー日本は共同社会への参加が条件。などの古典を乗り越えた社会が登場しつつあるように思える。
イチハタ