新憲法はどのようにして生まれたか?(その4)
新憲法成ったるときの国会の一瞬のしじま忘れて思(も)へや 入江俊郎法制局長官
新憲法が議会で成立した時、議事堂は一瞬静寂の気に包まれたという。
46年4月10日に新選挙法によって衆議院議員の選挙が行われ、17日には「憲法改正草案」が公表された。新憲法の成立、公布、施行までの日程を下に時系列で示しておきます。
4月17日 「憲法改正草案」を公表
5月13日 極東委員会、新憲法の採択に関する三原則を発表
6月20日 総選挙後初の議会開催
6月21日 マッカーサー声明
8月24日 憲法草案 衆議院を通過
10月6日 憲法草案 貴族院を通過
11月3日 新憲法の公布
~~~~~~~~~~~~~
1947年5月3日 新憲法の施行
1951年9月8日 サンフランシスコ平和条約調印
1952年4月28日 同条約発効(日本独立)
私はかすかにしか記憶がないが学校で憲法施行を祝う式典が行われたはずである。紅白の菓子などをもらっていれば記憶に残ったことであろう。冒頭に掲げた入江俊郎法制局長官の「思い忘れることがあろうか、忘れてはなるまい」という感慨はどれだけ現在の人々の胸に響くだろうか。
これまで気を詰めて標題の筋を追ってきたので以下には調査の過程で気づいた幾つかの問題に言及しておきたい。
(1)「逆コース」という標語はGHQがそれまで進めてきた民主化、非軍事化方針を一大転換させて以降の占領政策を指すもので、いかにも被占領国民の受け身の言葉らしい。その転換のきっかけをなしたのは1947年の日本共産党主導の2・1ゼネストの停止命令とされる。これに50年の朝鮮戦争の勃発が続き、公職追放指定者の追放解除、レッド・パージが行われた。これらの政策の大転換は米ソ冷戦を基軸とする国際情勢の変動によるものである。2・1ストよりは「朝鮮動乱」と呼ばれた朝鮮戦争(50年6月25日)の方が再軍備の機運(警察予備隊の創設)に直結するだけに実感がこもっている。2・1ゼネストの停止命令とすれば新憲法の制作は緒に就いたばかりであまりにも皮肉である。「逆コース」への方向転換は冷戦の激化に対する国務省の方針であった。
(2)「マッカーサーの解任」は日本国民にとって晴天の霹靂と言っても過言ではなかった。偶然というべきか、ちょうど前稿を書き終る8月末に、NHKの「映像の世紀」が「GHQの6年8カ月」を見せていた。それはGHQから見た憲法の創成期を描くものであったが番組はマッカーサーの解任劇で終った。
マッカーサーの解任前後の様子は升味準之輔(都立大学教授)の『戦後政治(下巻)』(1983年5月刊)が、われわれがほとんど忘れている時代の様相を伝えていて興味深い。GHQ外交局長のウイリアム・シーボルトは国務長官の指令に従って解任の発表のあった4月11日夕刻、吉田首相を訪ねた。首相は身体を震わせて言った。「自分はマッカーサーに恩義を感じている。自分の成功は彼の指導のお陰であり、天皇制が存続したのも彼の力に負っている。閣僚ともそう話したところだ、明朝は天皇に拝謁することになっている。」(Sebald, With MacArthur in Japan)
「天皇は、マッカーサー訪問を希望した。側近は、マッカーサーはすでに一外国人であるとしてこれをおさえようとしたが、天皇の希望が強いので、彼が答礼に来るならと彼に問い合わせた。彼は、『ご来訪の必要はまったくない。ともかくいまは答礼にいけるような状態にないと天皇に伝えられたい』っといった。これを聞いて天皇は、マッカーサーに離日の前日訪問すると伝えよと命令した。その日曜日、天皇は、マッカーサーを訪ね、その手を両手でにぎり、双頬に潜然たる涙をとめどなく流した、という。」(Whitney, MacArthur: his rendezvous with history)
マッカーサーの帰国直前の昭和天皇、吉田茂とのこれらの会見の様子はそれぞれ彼の側近の回顧録によるものである。マッカーサー自身の『回顧録』は天皇との最初の会見を含めて虚飾が多いのは定説となっている。しかしこれらは彼自身の手になるものではないので潤色はあるとしても大筋において信用してよいと思う。逆にこのような会見の様子が日本で広く伝えられないのは日本人の矜持を損なうものだからであろう。
4月16日に羽田を発ったマッカーサー一家を見送った宮沢喜一はこう書いている。「とにかく司令部にも、また日本国内一般にも当時マッカーサーを何か殉教者のように感じる空気があって、マッカーサーが羽田から帰る時の見送りは、東京の日比谷から羽田の飛行場まで道の両側にぎっしり人が並んで、前にも後にもこんな派手な見物はまずあるまいと思われた。…」
近年になってマッカーサーは朝鮮戦争で核兵器の使用を主張してトルーマンに解任されたと伝えられるようになったが、NHKの映像には原爆投下の予定地という幾つもの都市のリストが写し出されているのを見て、あらためて鳥肌の立つ思いがした。しかしこの報道は誤りであり、以下に述べるように訂正を要する。アメリカ軍が中心の国連軍はソ連の参戦を危惧していた。NHKが映しだした港湾都市のリストはその場合に備えた爆撃予定地と思われる。(下記、英文ウイキペディア参照)
升味の著書は、マッカーサーの核兵器使用の建言に一切触れていない。しかし、それがなくとも、最高司令官として苦戦する国連軍の督戦にあたるマッカーサーはワシントンのトルーマン大統領と戦略面で対立し、大統領の宥和的な政策を公然と批判していた。トルーマンは戦線を拡大することには基本的に反対であった。しかしソ連の参戦に備えて核兵器の使用を何度も検討し、グアム経由で核弾頭を嘉手納基地に送り込んで組み立ての準備を完了していたと英文ウイキペディアはRelief of Douglas MacArthurで詳述している。
このことを朝鮮戦争の専門家ブルース・カミングズは「トルーマンがマッカーサーを排除したのは、核兵器の使用に踏み切った場合、その場に信頼できる司令官を必要としたからだ、つまりトルーマンは彼の核戦略の為にマッカーサーを解雇したのだ」という。(Bruce Cummings” The Korean War”)
(3)「押し付け憲法論」は「1954年ごろに雨後の筍のように族生された」と古閑彰は言う。憲法案がGHQ製であることはすでに紹介したように宮沢俊義を始めとする東大の憲法研究委員会だけでなく指導的立場にいる政治家、学者、官僚、法曹人は程度の差こそあれーー耳打ちされた人も含めてーー知っていた。知らなかったのはわれわれ「普通の人」だけだった。日本国憲法を審議した貴族院の憲法改正特別委員会の委員には勅選議員の宮沢俊義、佐々木惣一、浅井清などの憲法学者が名を連ねていた。もっとも代表的な学者委員は南原繁東大総長であった。南原は衆議院から貴族院へ改正案が送付された貴族院の本会議(46年8月)で次のように述べていた。
「この間における政府の苦心については察するも、われわれは日本政府が自主自立的に責任を持って、ついに自らの手によって作成しえなかったことをすこぶる遺憾とし、これを日本国の不幸、国民の恥辱とさえ感ずる者である。かくては新憲法は上より与えられたというだけでなく、これはまた外より与えられたとの印象を国民に感ぜしめる惧れはないであろうか。」(議事録および『南原繁著作集』第七巻」)
こればかりでなく、南原はのちに議会で日本国憲法を承認し、その後、新憲法改正に反対する「憲法問題研究会」で講演もしている。このように「押し付け」は早々にして知られていたにも拘わらず議会では共産党所属の議員以外はみな賛成票を投じていたのである。これらの学者や指導者たちは「押し付け憲法論」が浮上するまでいったい何をしていたのだろうか。「九条の『平和条項』が、少数の議員によってではあるが、自発的に修正されていた事実を勘案すれば、押し付けの虚構性は明白ではないか」と古閑は指摘する。
憲法改正を求める声は朝鮮戦争の深刻な動態によって高められた。1952年『中央公論』新年号には「憲法改正問題特集」が組まれており、憲法論議の常連ともいうべきお歴々が座談会に参加し、あるいは論文を寄せている。そこに寄せられた佐藤功成蹊大教授の「憲法改正論の背景」には以下のような事態の推移が描かれている。
新憲法の成立間もなくその改正の可能性はその後に繰り返し論じられるのとは異なった文脈の下に浮上していた。それは、46年10月17日、新憲法が帝国議会を通過した直後の、かの極東委員会の以下のような決定である。「新憲法実施後その実際の運用に照らしてこれを日本国民に与えるために、また極東委員会としてはこの憲法がポツダム宣言その他日本管理方式に規定された条項を満たしていることの確証を得るために、憲法実施後1年以上、2年未満の間に新憲法に関する情報を日本の国会に再検討せしめる方針を決定した。極東委員会は同じ期間内にその権限内で好むときに新憲法を再検討する。」
これに対して日本側は積極的な対応はせず、GHQの示唆による憲法改正委員会設立の方針も立ち消えとなった。吉田首相は極東委員会の設定した期限前の49年4月20日に「政府としては現在憲法改正の意思は全くない」とのべた。極東委員会もまた4月28日に日本国憲法改正の理由はなく、新指令を出さぬことと決定した。
6月25日、朝鮮事変が勃発する。8月11日、マッカーサー元帥は、ワシントン米国在郷軍人会会長ハロルド・ラッセル氏の質問に答えて、「日本が侵略の餌食となるよりは再軍備する方が良いとの理解はだんだん深まってきているようだが、これは世界情勢の発展により決まるものである。今後の情勢次第でもし全世界が自由のために戦うときがくる場合、日本が攻撃を受ける危険に面した場合には、日本は経済の許す限りの防衛力を持たねばならなくなるだろう」と述べた。
対日講和条約案は朝鮮戦争と並行して最終局面を迎えていた。日本の国会でも憲法第9条は、講和問題、朝鮮戦争、将来の安全保障体制と並んで論じられた。しかしここでも第9条の改正そのものの論議は連合国側から生じていた。「ワシントンの外交当局者は、2日連合国筋には、もし日本が希望するならば、結局日本の再軍備を許さなければならないという考えが一般的になっているようだと言明した。彼らの語るところによれば、対日講和条約には再軍備制限を規定しないとの方針を支持する米国の立場に対し、連合国側にはほとんど反対の声がないようである。…日本を永久的に武装解除しておくことを望む諸国がその主張を貫き得なくなった決定的要因は、結局朝鮮の戦乱とそれが及ぼす種々の影響にあるようだ。」(東京新聞50年9月4日)
佐藤功は朝鮮戦争をめぐるこのような報道をもとにして「わが国の側において、第9条の改正そのものについての論議が行われだしたのは、このような連合国側からの問題提起の後であったといってよい」とする。こうなると憲法改正も「押し付け改憲論」と言わねばならなくなる。
最後に、これまでの登場人物についての挿話の幾つかをまとめておきたい。
マッカーサーについては文中で多くふれる機会があった。よく知られている彼自身の『回想録』は虚飾が多いことであまり信用できない人柄を思わせる。しかし歴史的人物としてのマッカーサーは、農地改革、財閥解体を含めて、日本占領統治に成功した政治家として評価してよいだろう。
吉田茂の前に首相としてマッカーサーに対処したのは幣原喜重郎である。幣原は50年前にロンドンで英語の個人教授を受けてシェイクスピアを暗唱させられた話をしたところ「シェイクスピアでは何がお好きですか」と聞かれた。そこで首相は『ベニスの商人』と答えてポーシャの法廷のセリフ(4幕1場)を静かに朗唱した。それは「そもそも慈悲と称するものは其性質上決して強行さるべきものに非ず/恰も天より地に陥つる雨のごとくに降り来るものなり」で始まって数行続いた。いつの間にか元帥の手は首相の肩から離れてその手を握っていた。(村山有『終戦の頃』1968)
交渉の局にあたった松本丞治は法律論によって果敢に抵抗した。吉田茂は意外に影が薄い。広く読まれた『敗北を抱きしめて』の著者ジョン・ダワーの初期の作品に『吉田茂とその時代』があるが、駐英大使時代の吉田が「日本を理解して欲しい」と繰り返すだけで話にならないと英国で酷評された外交官だったと書いてある。論理や筋道を通す議論は苦手な日本的な政治家だったのかもしれない。
頻繁に論壇に現れた宮沢俊義の右顧左眄、憲法研究委員会の不作為についてもすでに述べた。宮沢俊義教授を委員長とし、東大法学部を中心としたこの委員会は高木、我妻、横田教授など…すべて20人からなっていた。GHQ案が出された翌日、早々と委員会が結成されたことを指して古閑彰は「激変した憲法体制に対し、いかに政治的に早く、かつ組織として、つまり東京帝国大学として政治的ヘゲモニーを握るのかの問題であったのだろう」と書いている。
「ここで「政治的ヘゲモニーを握る」とは何を意味するのだろうか。それは古閑が別の箇所でいう「日本のあるべき憲法解釈、ひいては日本のあるべき憲法の姿そのもの」を手中にすることであろう。言い切ってしまえば、国家統治の一脚を担う法律制度を己の領域としてその解釈、運用の任に当たることに違いない。