谷崎潤一郎の作品と家族
私の読んだ日本の小説(3)
ここまで日本の大作家たちについての雑念を纏めてきたが、ここで材料を手にしながらなお幾つかの課題を置き去りにしてきたことに気づく。
Seymour-Smith による近代日本文学論の総攬、専門医による漱石の病状診断などである。鴎外についても書くべきことを書いていない。三島については未読であった『仮面の告白』などいくつかの作品を読まなければならないと思っていた。しかしここでは谷崎潤一郎について論じたいし、彼の作品についてのMSSの評言もご紹介したい。
MSSは三島の同性愛と並べて彼の「西洋のすべての文物に対して日本人が持つ、果てしない好奇心」を指摘していた。これまでにあげた文人でいえば二葉亭はロシア、鴎外はドイツ、漱石は英国へ留学してそれぞれの国の影響を受けている。少し遅れては永井荷風も西洋の影響という点で人後に落ちない。
彼らに比すれば谷崎は欧米での生活こそないが彼の作品には西欧的情緒を読み取らないではいられない。その意味でMSSの指摘は正鵠を射ている。このことはもちろん維新後の日本の文化のありようと密接に結びついているが作家として避けて通れない道だったとは言い切れないのではないかと思う。
谷崎は『源氏物語』の英訳者であるアーサー・ウエーリイに『細雪』を送っており、ドナルド・キーンはそれを目にしている。キーン氏は来日して間もなく(おそらく1955年)谷崎を訪問しているが、「初期の作品には西洋崇拝が目立った谷崎は(和服姿で)、すっかり日本回帰していた」という。その時、キーン氏は思い切って『細雪』が私小説なのかと聞いたのに対して「本当に近い話だよ」と笑って答えたという。
MSSが谷崎について「どのような尺度をもってしても、今世紀のもっとも重要な作家の一人であることにいささかの疑いもない」と評価していることは先にご紹介したが、その著書で谷崎を紹介する冒頭の文章はそれ以上といえる。
「(谷崎は)すべての言語を通して今世紀最高の作家の一人である。その持つ多様性のすべてが彼の作品に見事に注ぎ込まれている。その成熟した作風は厳密には印象派風ではないが、批判的な目を行き届かせることによって、作家の恣意性を巧みに回避している。谷崎の後期の作品は悪趣味なデカダンスに立ち向かった芸術家の努力の賜物といってよい。彼は三つに分けることができるそれぞれの時期のすべてにおいて傑作を生みだしている。」
三つの時期の第一は、ポー、ワイルド、ボードレールの影響下におけるエロティシズムの時代。作品としては『刺青』がある。この時代の谷崎は日本の西洋化は遅すぎると考えるという意味で進歩派であった。(第二の時期は1923年の関東大震災後に横浜から京都へ移住して、日本の伝統に次第に引き込まれていく時期であるがエロティシズムへの関心は消えなかった。)初期の作品としてはほかに、『お艶殺し』、『麒麟』、『悪魔』、がある。
『痴人の愛』(1925年)はサマセット・モームの『人間の絆』の場面を日本に移すことによって谷崎のそれとなきムードの転換を示している。この作品で谷崎は西洋化に突き進む者たちに警告を発すると同時に己自身に対する性への耽溺がもたらす破滅の戒めとしたものと取れる。
『蓼喰ふ蟲』(1928年)はもっとも明白に自伝的な小説である。谷崎にとって女性は西洋的か日本的かによって分類される。彼にとっては西洋的、日本的の生き方の対立はすべて性的な意味合いを持って表現される。主人公は愛人(実人生では佐藤春夫)のいるモダンな細君に飽きて、古風な美人である義父の妾に魅力を感じている。しかし彼は、他方ではユーラシア人の娼婦と関係を持っている。谷崎の近代日本に対する嫌悪が最も明白なのはこの作品においてである。夫妻の無気力と倦怠感の描写は見事で、本書が西洋に紹介されたのは30年後だったが大好評であった。
この作品を最後に谷崎の作品は第三期に入る。デカダンと見られた谷崎のような作家にとってファシストが支配する1930代、40年代前半は危険な時代であった。1930年代には『蘆刈』、『春琴抄』のような伝統的な女性を主題とする幾つかの小編を書いている。『源氏物語』の現代語訳を刊行したのは1939年であった。
長編小説『細雪』は戦時にそぐわないとして出版をさし止められたがその判断は無理もない。話にこれという筋はなく、1936~40年期の神戸のある一家の4人姉妹の繊細で細部にわたる描写に徹して、あたかも小説によって写真のように現実を再現する試みである。ドナルド・キーンはこれを「“roman fleuve”、どんよりとして、ゆったりした大河の流れ、止むことなく意味もなく終わりに向かうかのような流れの本」と評している。「意味もなく」には引っかかるが、名言である。この作品の価値については、これまでにも、そしておそらくこれからも議論が残るであろうが、映像的リアリズムの実験としてこれに優るものはどこにもない。この頃までに、谷崎は日本人の文化的才能のエッセンスとも言うべきものを捉え直そうとしていたのかもしれない。
1950年には『少将滋幹の母』がある。これは平安朝に材を取って、中期の作品よりももっと直接的に、初期の作品の主要テーマ、つまり―妻であれ,愛人であれ,母であれ―女を奪われた男の性(sexuality)を扱っていることは興味深い。主人公たちのマゾヒズムはそのような喪失感への恐れからきている。
晩年の作品『鍵』、『瘋癲老人日記』についての評は短いが高い評価は後退していない。後者について、老人の性的倒錯は西洋による日本の道義的退廃を指しているという人がいるがそれはないだろう。これはむしろ、老人の性的困難を皮肉ではあるが同情心をもって描いたものと読むべきであろう。これを不可とする読者は彼らが育った世界のノイローゼ的環境を告白していることになる。
MSSがコメントした、以上の作品は谷崎の著作の一部にすぎない。しかしこれだけを見ても谷崎の全体像の幅広さを感じるに足る。谷崎は1965年(昭和40年)79歳で生涯を全うした。腎不全から心不全を併発して、湯河原の自宅で逝去した。当時としては長寿と言ってよく、生涯を文筆に託して生きた巨匠といってよい。
ここに上げられた著作のうち私が読んだ記憶のあるものは『細雪』、『春琴抄』、それに『鍵』、『瘋癲老人日記』程度に過ぎない。ほかには『少将滋幹の母』が毎日新聞に連載されていた時にほぼ読んだように思う。あまり目立たないが、かなり後に読んだ『武州公秘話』には強烈な印象を受けた。著者自身もこの書には最後まで愛着を持っていたと見えて、晩年に『おあむ物語』などを手許に集めて続編の準備に取り掛かっていた。『武州公秘話』は中央公論社の『日本の文学25』に収録され、解説を書いたドナルド・キーンは、その一つのシーンについて『おあむ物語』そのものよりも、その挿絵により多くの影響を受けたのではないかとしている。
谷崎没後に夫人の松子が著した『倚松庵の夢』は文豪の予想外の側面が描かれていて小説以上に興味をそそられた。財閥家の夫人を「お慕い申しております」と両手をついて迎えるところなぞは即座に『春琴抄』を思わせるものがあった。はたして谷崎はこのようなことが世に顕れることを望んだであろうか。
佐藤春夫とのいわゆる「細君譲渡事件」(連名の「譲渡」声明書の知友への発送は1930年8月18日)は著名作家同士の恋のさや当てとして新聞の社会面を賑わせた。谷崎にないがしろにされた千代子夫人に佐藤春夫が同情したところに端を発したこの事件について佐藤は『改造』に連載した『この三つのもの』という長編で彼の苦渋をのべているが完結しないままで中断した(講談社文芸文庫所収)。よく知られる佐藤の詩「秋刀魚の歌」はこの事件の直後に書かれたものである。一方の谷崎はその後で『佐藤春夫に与えて過去半生を語る書』(中央公論、1931年11月号)で抗弁しているがそこには反省の念も垣間見られる。
今この事件を回顧して気づくことは当時の女性の「存在の耐えられない軽さ」である。春夫に宛てた谷崎の次のような一節はそのような境遇に対する谷崎の
真情を示すものと言ってよいだろう。
「君は二十五歳にして初恋を知った千代子が、いかに無邪気に少女の如く興奮したかをよく覚えてゐるだろう。それまでの彼女は、夫の仕打ちを恨みながらも罪を己の愚かさに帰して、ふつつかに生まれた我が身の不幸を歎いている昔風の女に過ぎなかったが、あの時彼女は俄かに若さを取り返した。その頬には生き生きとした赤味がさし、その眼には理知の色さへ輝きだした。」
雑誌『文芸』は2015年に谷崎の没後50年を期して谷崎を特集する別冊を発行している。20人ほどの文筆家がこれに寄稿しているがなぜかこの事件に触れたものはない。
私はこの世間周知と思われる事件は横目にして通り過ぎることができると思ったのであったが谷崎から佐藤宛の9通の手紙が発見されたのを契機に水上勉がまとめた解説(「両文豪の真面目」中央公論1993年4月号)を読んでそうもいかなかった。1人の女性をめぐる2人の旧友が絶交に至る真剣な議論に釣り込まれたのである。
私が用意していたのは実はそれではなく谷崎の妹、林伊勢の生涯である。私は彼女の書いた『潤一郎、精二とその弟妹 ―あるブラジル移民の話⊷⊷ 」(新潮1975年2月号)を発刊時に読んでいた。そして日本を食い詰めた夫に従って、寄る辺のないブラジルで貧困のどん底に沈んだ憐れな妹に谷崎のような大文豪が何の力にもなってやらない薄情さに驚いた記憶が残っていた。ところがこれほどあてにならない記憶にはわれながら驚くほかなかった。
伊勢がその人生を振り返る文章は、論理的な筋道を外さず、淡々として明晰なことは驚くほどである。またその内容に至っては、たとえそれが見知らぬ行きずりの人のものであったとしても引き込まれずにはいられないだろう。二段組みの雑誌28ページに及ぶ回顧は息もつがせない。
伊勢がブラジルへ渡ったのは1926年(昭和元年)のことであった。世間の信用を裏切り続け、身持ちも悪い夫について、忘れられないことが多々あるとしながら本文は長兄潤一郎と次兄精二の思い出に終始している。それも何とかして伊勢を窮状から救い出そうとする彼らの真情についてである。
冒頭に近く伊勢は、この文章を書くのは多くの人には知られていない長兄や次兄の一面を知ってほしいからであると言い、次のように続ける。
「しかし、ありのままを書こうとすれば、どれもこれも、みな、伏せておきたいことばかりで、ペンも思うままにはすすまないが、それを書いておかねば、本当のことはわかってもらえないし、それが書けるのは、今は私だけになってしまったという思いもあって、私は自分を鞭打つ思いで、この文章を書きついでいるのである。」
副題に「あるブラジル移民の話」とあるようにこれは伊勢自身の話でもある。気づいたときは小さな子を連れて列車に飛び込もうとしていた時もあった。一応の話を終えた後でまた次のようにも書いている。
「しかし、このように書いて来ながら私は、実は、私のことは、すべてをあったままに書いてはいない。といっても、私は、おおよそは、ここに書いたような日々をおくったのであり、私のみじめさを決して誇張してはいないつもりである。事実は、私はもっと愚かで、もっとみじめで、もっと醜かった。」
潤一郎、精二の二人の兄弟は「地の果て」で呻吟している妹の救済のために出来るだけの方策を立てていた。兄たちから送られた帰国費用はブラジルの革命騒ぎや郵便事情で一部しか届かなかったし、夫が離婚証明を書いてくれなければ領事館での帰国手続きもできなかった。伊勢が急性肺炎で危篤状態になった時は精二から電報為替で当時の金で百円という大金が送られてきている。
長兄と次兄が妹のためにどのような努力を払ったかを伊勢が知ったのは、早稲田大学の国文科の教授であった精二から1969年、その死の2年前に『明治の日本橋・潤一郎の手紙』が送られてきた時である。そこに収められた22通の手紙のうち7,8通に「お伊勢」という言葉が何度もでていて、二人の間に激しい言葉の応酬があり、「長兄が引き取らぬならば、自分の生活を切りつめてでも引き取ろうと、次兄は長兄に対して強硬な態度までとり、そうした次兄の激しい言葉に、長兄も激怒して、とうとう二人は義絶までしていた。」
「細君譲渡事件」が新聞種になったのは、伊勢がブラジルへきて5年目の時であったが伊勢が人知れぬ苦労を重ねていたのは、潤一郎がこの問題に苦慮していた最中でもあったことがわかる。伊勢は耽美派の作家と呼ばれ、世間でも名の知られた長兄に対しては気おくれがあったが、次兄の精二にはより親近感を持っていた。また精二は絶えず励ましの手紙を送り続け、伊勢は「次兄の手紙を唯一の指針として、その日、その日を生き抜いてきたのであった。」
伊勢は1961年に潤一郎の病気見舞いに一時帰国をしているがその時は彼女自身のことをめぐって兄たちの間に起こっていた確執を知らなかった。彼女はその後再婚し、一男二女を得て、子供や孫たちに囲まれて「この上なく幸福であると自分で考える日々」を送ることができた。
谷崎家には生後3日目に死亡した長男を別にして男4人、女3人の兄妹がいた。潤一郎は戸籍上の長男である。伊勢にとっては三兄にあたる得三は20年間行方不明であった。その消息が知られたのは精二の教え子でもあった石川達三が新和歌の浦の旅館で耳にした噂話がきっかけであった。その数奇な運命をたどることは日本の社会や家族がどのようなものであったかに光を投げかけるものに思われるが本題を外れることになる。