P大島昌二:「読書遍歴(3)きだみのる」2023.11.2 Home

00039(2024.1.29 06:49) 

P大島昌二:「読書遍歴(3)きだみのる」2023.11.2


 「読書遍歴」と題して記憶をよみがえらせながら文章を書くことに思いついた時、一番書きたいと思っていた作家はきだみのるだった。(以下は、キダないしはキダミノルとする)ただ、それももっともよく知られた『気違ひ部落周游紀行』(昭和24年3月発行)についてではなく、広くは知られていない『道徳を否むもの』(新潮社一時間文庫、昭和30年3月発行)であった。ある時から、私は自分が「自我」というものを意識させられたのはこの本によってではないかと考えるようになっていた。キダミノルは自我ではなく「個我」という言葉を使っているがこの2つは同義として差し支えないだろう。


 『道徳を否むもの』を読んだのは大学生になってからであるがその時に初めて自我に目覚めたとするのでは遅すぎるだろう。自分は1人の存在であって他に同じ人はいないということならもっと早く気づいていなければならない。近所の遊び仲間ではなく、当時は国民学校であった小学校に入学して一挙に大勢の級友に出会った時、あるいは小学3年の学童疎開で父母の許を離れて伯父の家の世話になった1年間ということになる。集団疎開ではなく縁故疎開であったのは幸いであったが、肉親の愛情ばかりでなく日々の生活の糧も乏しい疎開世代の自我は平時よりも早い時期に育まれたといってよい。このように幼年期までさかのぼって「自我の目覚め」を描いた本には後にも述べる下村湖人の『次郎物語』がある。


ドイツには”Bildungsroman”という言葉が文学の1ジャンルを表わすものとして使われるが日本ではそれをドイツ語のまま「ビルドゥングスロマン」ということが多く、青年の人生修行を扱った小説を意味する。英語にもこれに相当する言葉はないという。ゲーテの『ウイルヘルム・マイスターの修行時代』と『ウイルヘルム・マイスターの遍歴時代』を合わせてその代表作として上げるのが常である。われわれの学生時代にはロマン・ロランの大河小説『ジャン・クリストフ』がほとんど必読書のようにいわれたがこれもまた代表的なビルドゥングスロマンである。私が感銘深く読んだトーマス・マンの『魔の山』もそのような一冊であった。


日本では、これに成長小説、教養小説という訳語が使われることがあるが心身の成長をたどるロマンは息の長い長編小説になるので、ゲーテの代表作に数えられるウイルヘルム・マイスター(岩波文庫、山崎章甫訳で6冊になる)と比べられる作品を見つけることは難しい。


私は退職後に電車での移動時間に読むことにしてウイルヘルム・マイスターを何とか読了した。私がこの長編に取り組むきっかけとなったのはサマセット・モームが『作家の立場から』(Points of View)の中で、今ではあまり読む人がいないと言いながらその興味を説き明かしていたからであった。


実務家でもあるゲーテの教訓は巾広いもので中にはこんなものもある。「真の商人の精神ほど広い精神、広くてはならない精神を、ぼくはほかに知らないね。商売をやってゆくのに、広い視野をあたえてくれるのは、複式簿記による整理だ。整理されていればいつでも全体が見渡される。細かしいことでまごまごする必要がなくなる。複式簿記が商人にあたえてくれる利益は計り知れないほどだ。人間の精神が生んだ最高の発明の一つだね。」


電車の往復だけで読んだということは、私はこの本にあまり引き込まれなかったということである。いや、むしろ退屈しながら読み続けた。当時の私が目を引かれて記憶に残したことに次のような箇所もある。「どこにいても人間には忍耐が必要だ。どこにいても気配りをしなければならない。それなら、インディアンを追っ払うために、彼らと殴り合いをするとか、契約を結んで彼らをだまして、蚊に死ぬほど悩まされる湿地帯から彼らを追い出したりするよりは、王と折り合いをつけて、あれこれの権利を認めてもらったり、隣人と話し合って、なにかの制限を免除してもらい、こちらからも別の面で譲歩したりする方がましだ。」


これはアメリカの膨大な土地を引き継ぎながらドイツへ戻ってきた一人の登場人物の言葉である。(私はレクラム文庫で原文を参照していたが「イロコイ人(族)」を追っ払うために」と書いてあるのを「インディアンを追っ払うために」と変えているのを不満に思った。)イギリスの植民地とはいいながら、アメリカへの移民はイギリスからよりも相次ぐ戦乱に国土が荒廃し政治的にも分断されていたドイツからの方がずっと多かった。


ドイツが近代国家に統一されるのは1871年のドイツ帝国の成立以降である。いずれにせよ、伝統的なヨーロッパとは違って、事業においても宗教においても自由なアメリカは、とりわけ移民が西部にまで及ぶ前の18世紀初頭には、望ましい土地が欲しいだけ手に入る自由の天地であった。


ウイルヘルム・マイスターについて一言付け加えると、ゲーテはそれを完成させるのに大いに難航して晩年の長い年月をかけており、深い友情を結んだフリードリッヒ・シラーはその草稿を読み、意見を述べ、時には手を加えたりもしていた。


 


キダミノルの『道徳を否むもの』を私は一つの成長物語として読んでいた。これを「ビルドゥングスロマン」とするには短く圧縮されすぎており、細部の描写に乏しい。キダのこの本の前には下村湖人の『次郎物語』があった。ところがこれらの物語はウイルヘルム・マイスターが籠から放たれた鳥のように羽ばたきを続けるのとは違って、抑圧でしかない家族という環境を逆に疎外し返す自我の成長物語である。キダの方でも、単純化して昔風にいえば、叱責されれば無言ながら即座に反発する、我が儘ともいえる性向があった。その自伝的物語『道徳を否むもの』とはキダミノルその人の屈することのない魂の記録と言ってよい。


主人公の山村慎一は、自分の一生を見守ってくれたフランス語学院(A..F..)の創始者(J..C..)の葬儀に行き、死の直前に過去が迅速にひらめいて流れるという走馬灯のように、自分の来し方とないまぜになったJ..C..の幻影を見続けた。台湾に住む親元を離れて叔父の家で満ち足りない学校生活を送っていた慎一は家出を敢行して函館のトラピスト修道院へ行く。彼の望みはただ一つ「他人の邪魔をしないで、他人に邪魔もされないで、静かに暮らしたいのです」ということだった。しかし修道院では読める本には制限があることも知らされた。慎一は家出に失敗して東京に戻るが、彼はその修道院でJ..C..と運命的な出会いをしたのだった。


相次いだ転校や理解のない教師に虐げられて死の誘惑にも駆られた慎一を常に救ったのはフランス語で「わたくしはよい教師でありましょう」とう言葉を繰り返し唱えさせたJ..C..であった。慎一はやがてA..F..で学び、また教えるようになるがフランスへの留学の機会を得てソルボンヌ大学で社会学を学び、また中国へ旅行することもできた。しかし慎一は常にJ..C..の傍らにいたわけではない。J..C..の訃報を聞いて彼は次のようにいう。


「彼は私の傍らで、私を見守る巨大な樹に擬えて差し支えなかった。私はその陰で風雪を凌ぎ、私の精神はそこで形をとり、彩られ、香りをつけた。私の人生の実験は彼の慈愛が描く半陰影の闇の中で展開して来たのだった。」しかし反面では「それは精神には縛る縄のようでもあった。自由な行動はそれに阻害された。」自分の生涯を左右するほどの深い慈愛と大きな影響は慎一の心の平衡を乱すものでもあったのである。


キダの『道徳を否むもの』を今読み返してみたが私は多くのことを忘れていた。言い切ってしまえば、その内容からは何故この本をいつまでも覚えているのかもはっきりしない。自我を大切に保持する人は少なくない。しかし彼らのほとんどはどこかで妥協している。慎一はそのような妥協を拒むことにおいて突出している。彼はそのような自我によって私を静かに鼓舞したのだったろうか。題名も直截で、すっと胸に落ちてくる。


 


それでは『気違ひ部落周游紀行』には何が描かれているのだろうか。そこでは『道徳を否むもの』とは対照的に自我は眠ったままであることに気がつく。ちなみに、「気違い部落」とは当時の恩方村、現在の八王子市に恩方の地名が残っている。「気違い」も「部落」も今ではタブーとして日本語から放逐されている。私は大学に入るまで農村的な環境で生活していたから「気違い部落」というネーミングにはピンとくるものがあったし本書の内容も無理なく理解できた。


農村は都会的ではないのだ。そこは部落であり、底流では意味の分からない古めかしい風習が支配していた。「巫女(みこ)さま」という老婆がいて土地の人は「失せもの」があったりすると巫女さまにお伺いを立てた。具体的なご託宣は知らないが失せものについては方角を教えてくれるもののようであった。旧習の頂点に鎮座するかのような巫女さまには一度でよいからお目にかかっておくべきだった。私の部落は町のはずれにあり、町は東北本線に細長く沿っていた。夜汽車の汽笛の音が聞こえると、ここを一筋にたどって行けば東京に行けるのだと思うことがあった。


『気違ひ部落周游紀行』の登場人物はそれぞれが英雄と呼ばれる。シン英雄、ユメ英雄などである。同書の末尾は次のように締めくくられている。「条件を変えれば、これはあなたのことです。(……)諸々の英雄豪傑の面々は異なった服装と体の中で日常に銀座を歩き、タクシーを飛ばし、官庁で捺印し、事務所で執務しているばかりでなく、なお我々の心の中に巣を喰っていないとは云えないであろう。」


これだけでは月並みと思ったのかもしれない。キダは社会学者らしくフランク・ハリスという英人ジャーナリストの著書(My Life and My Love)から一節を引用して示す。彼はアフリカでライオン狩りをした際に、一群の黒人たちと酋長のグループを写真に撮り、現像し、印画して彼らに見せた。黒人たちは酋長や仲間の姿は容易に識別することができた。しかし自分自身の姿を指してこれは誰かと本人に訊ねると「――はてこれは誰だんべえ、一向に見ねえ顔だ、と誰も答えるのであった。——おまえだよ、と指摘しても、——馬鹿べえこいてらあ、と断固否定するのだ。」


フランク・ハリスはこの心態を実証するとともに大要次のように付言している。「自分を自分と認識するためには、ある程度の知的発達を必要とするもののように思われる。」

***ネット情報(管理人)***

2019年10月2日 

· 

タブーとなった映画『気違い部落』上映のお知らせ


「表現の不自由展・その後」の公開を中止した名古屋で、「きちがい」という表現が使われるため放映されない松竹娯楽映画を上映します。

表現の自由は大切です。特定の作品を観る観ないは、

個々の市民がそれぞれ判断すれば良いことでしょう。

この映画は1957年公開、ブルーリボン賞脚本賞受賞作品。

松竹から16ミリフイルムをお借りできました(DVDはありません)。


【上映日】令和元年12月7日(土) 午後3時半~

上映時間134分


※フイルムが古いため画像の傷はご容赦ください

【入場料】 1,000円

【定員】 80名(前売)

【会場】#ソーネおおぞね

電話:052-910-1001

住所:名古屋市北区山田2-11-62大曽根住宅1棟1F

【行き方】

●名城線「平安通駅」から徒歩9分

●JR大曽根駅 から徒歩12分


【主催】N P O 法人わっぱの会、N P 0 法人名古屋成年後見センター


「気違い部落」とは、きだみのるの『気違い部落周遊記』『気違い部落紳士録』など、一連の“気違い部落”ものを原作に、菊島隆三が書いたシナリオを「正義派」の渋谷実が監督した社会喜劇。

撮影は「土砂降り」の長岡博之。主演は「鳴門秘帖(1957)」の淡島千景、伊藤雄之助、「肌色の月」の石浜朗、新人水野久美「伝七捕物帖 銀蛇呪文」の伴淳三郎。解説者として森繁久弥が登場する。


【映画.comより参照】https://eiga.com/movie/35870/