三木会のあらまし
昭和33年の卒業生有志で始められた三木会は2010年5月の第3木曜日に第300回の会合をもって一応の終止符が打たれた。「一応の」というのはその衣鉢を継ぐ形で新三木会が発足し、より若い血を注入して今もますます盛んな会合が続けられているからである。
三木会が発足したのは1983年10月18日火曜日で当初は三火会と称していたが間もなく如水会館の要請を受けて毎月第三木曜日に開催されることに変更された。この三木会を提案したのは江崎亮君(故人)で彼の要請を受けて大島昌二が第一回のスピーカーを勤めた。当初のメンバーは当時盛んであったゴルフのUFO会が中心だった。商法講習所が鯛味噌屋の2階で発足したというひそみに倣っていえば、第一回の会合は大島の勤務する会社の会議室、八重洲通りにある日本タイプライター・ビル5階で開催された。この時はわずか13人の会であったが、談論風発して止まず、ようやく近くの食堂に移った時には予約席がなくなっていた。
会の趣旨にこれと言うものがあったとすれば、卒業以来25年を経過して改めて同期生の親睦を深めよう、ついては異なった道を歩んだお互いの経験を伝え合う機会にしようというものであった。原則として会員が交代でスピーカーを務め、それぞれの職業あるいは関心事を語り合った。同期生のすべてに門戸は開放され通常は20人から40人ほどの会合になった。
会合が100回を過ぎた頃、「この会も何とか200回までは持っていきたいね」という人がいた。それが300回まで盛会を続け、次代へと引継ぐことができたのだから、以って瞑すべしである。そこで、このルースな組織がなぜ27年の長きにわたって続けられたかを考えてみる価値がある。私見に過ぎないが、一言でいえばそれは偶然にも助けられたリレー作戦の成功ということになる。
偶然とは、会が存続した前半期を通じて同期生が相次いで如水会の会館部長を勤めていたことである。重松成行、安田悠の両君はパソコン普及以前の事務処理をこなし、多くの場合、スピーカーの選定にもあたった。33年卒の会館部長がいなくなってからは市畑進、去来川信綱の両君が屋台骨を支えてくれた。幾分かは組織化も進み、会計幹事が選任され、クラスごとに複数の幹事が選ばれた。会計幹事は当初の2年は大島が担当し、その後は長期にわたって石川威、高井真澄の両君にご苦労願った。これによって各月の会合はLからWまでのクラスごとに担当することになりそれぞれが客員を含めたスピーカーの選任に当たるようになった。次第に職場を離れる会員が増える中で会が存続できたのはこの組織化のお陰だった。
第100回、第200回の記念すべき会合では塩野谷祐一学長、あるいは田中康夫長野県知事に講演をお願いした。同期生であった阿部謹也君には学部長、学長の2つの時期にわたって少なくとも4回、この会のために多忙な時間を割いて戴いた。
昨年5月の第300回の会合に到達するまでの道のりはこのようなものであった。そして新三木会へのバトン・パス。この最後の走者は鶴田瑞穂君で、その健脚ぶりは三木会に有終の美をもたらした。忘れてならないこととして、われわれには常に帰るべき場所があったことも記録しておきたい。第2回以後の会場は、佐野書院での一度を例外として、常に如水会館だった。集まり散じる場所を常に一定の場所に確保できたことは会を継続する上で大きな陰の力となった。
2011年3月21日
大島昌二
(如水会ホームページの「三木会記録」に掲載)