P大島昌二:読書遍歴(その9)冷戦下の世界2024.1.15  Home

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 ロンドン大学と言うのはロンドンにある大学の総称で私が通ったのはその中の一つロンドン・スクール・オブ・エコノミックスで通常はLSEと呼び習わされている。正確には ”London School of Economics and Political Science”という。卒業証明書をもらいに学長室へ行き高橋泰蔵学長に学校名をエコノミックスまで言うと”and Political Science"と言って「にこっ」とされた。

LSEではゼミや授業よりも学生が主催する講演会が記憶に残っている。アイザック・ドイッチャーについてはまた後にも触れたいがスターリンやトロツキーの伝記で名高く、また現実の「鉄のカーテン」の彼方の政情分析で定評のあるクレムノロジストであった。「なぜあなたは共産主義者ではないのですか?」という学生の質問に「私はどちらに組すべきか分からないのです」と答えていた。気息奄々と見えた英国共産党の副党首パーマ・ダットの話は珍しく詳細なメモを取ったのが残っている。彼の名は日本でヒューズさんから一度聞いたことがあった。「労働運動の歴史的役割は労働者を裏切ることである」という言葉を残しているという。このインド系イギリス人の名はほかに誰からも聞いたことがない。そう言えばヒューズさんは『チャタレイ夫人の恋人』が英国で長い間出版されなかったのは階級社会を批判するものだからであると明快だった。 


もう1人、ジョン・フリーマンは、当時はニュー・ステーツマンの編集長。歯切れよく、素晴らしいテンポを感じさせる英語で話した。BBCテレビの“Face to Face”というインタビュー番組で独立を目前にしたケニアのケニヤッタ、平和的共存の主導者、インドのジャワハルラル・ネルー首相に手厳しい質問を投げかけていた。日本の政治家ならひとたまりもないだろう。ケニヤッタにはマウマウ団の蛮行、ネルーに向かってはゴアの武力による解放をやり玉に挙げていた。ケニヤッタのどこ吹く風とばかりの悠然たる表情、ネルーの考えに沈む苦悩の表情が画面に写っていた。ネルーがどんな英語を話すかも耳に残った。これらのラジオやテレビの放送の内容はいずれもBBCが発行する週刊の “The Listener”で読むことができた。 


フリーマンは社会保障費の削減に反対してハロルド・ウイルソン、アナイリン・ベヴァンと行を共にして労働党を離党した経歴があったが後にウイルソン内閣の駐インド大使、駐ワシントン大使になった。私の視野から彼の名はそれっきり消えてしまっていたが今ガーディアン紙の追悼録を読んで驚いた。彼はその後も民間テレビ局のトップ、国際関係論の教授などを勤めた後、2014年に99歳で亡くなっていた。しかし、もっと驚いたことは彼が4度の結婚の他にバーバラ・カースル(男まさりの労働党の論客として名を馳せていた)やエドナ・オブライエン(著名な女流作家)とも親密な関係を持っていたということである。いずれも個性豊かな女性である。彼はそれぞれの職能に於いてすべて成功しながらそこに長くとどまらなかった。ここにもそのような性向が現れていたのかもしれない。 


 


当時は冷戦の最中であり、とりわけベルリンをめぐる東西ドイツの緊張が高まっていた。ベルリンの観光バスのガイドはガイドすると言うよりは忽然と姿を現した「ベルリンの壁」を客に向かって、声を荒らげて非難誹謗するのに忙しかった。似たような経験はパリからアルルへ向かうフランス自慢の特急「ミストラル」の車中でも経験した。独立間もないアルジェリアからすべてを奪われて追放されたフランスの青年がアルジェリア政府の不法を英語でなじり続けるのを聞かなければならなかった。 


私は日本で大方このような事態を予想していた。岩波新書に『東と西の間』と題するドイツ人ジャーナリストによる東西ドイツ統一をめぐる外交交渉を読んでいた。それは日本の北方領土返還と同様の冷戦によって「失われた機会」を詳述していた。それでもドイツは分断後45年、1990年10月1日に統一の悲願を果たすことが出来た。他方、日本の北方領土は遠ざかるばかりである。 


『死者は何時までも若い』で日本の若い世代の心をとらえていた東独の作家アンナ・ゼーガース(Anna Seghers)の『決断』も読んでいた。西ベルリンは西側の豊かな消費水準を誇示するショー・ウィンドウとして東側の住民の心を揺るがせた。それに惹きつけられた美貌の大学教授夫人は夫と共に国境を西へ越える。これらの本は冷戦の決着が着いたかに見える今日では読む人がいないと見えて再販はされず古書で高値でしか手に入らないが私は感心して読んだ本であった。ドイツ人にその話をするとゼーガースは「東側の作家ですよ」とうさん臭そうな目で見られた。彼女はゼーガースではなくゼッヒエルスと発音していた。 


日本では安保闘争が収束して間もなかった。私はイギリスでも日本の安保問題が話題にされるだろうと予想して事件をドキュメンタリー風に追っている日高六郎の『1960年5月19日』(岩波新書)を持参して行ったが話題に上ったことはなかった。(1960年5月19日は参議院の議決がないままに改定安保条約が自然成立した日である。)日本は遠かっただけでなく世界における存在感も希薄だった。英国では1956年のハンガリー動乱、そして2度目の渡英では1968年の「プラハの春」に続くチェコ事件(ソ連に主導されたワルシャワ条約諸国の軍事介入)が大量の避難民の受け入れを余儀なくさせ、まだ記憶に新しいようだった。相次いだハンガリー動乱やチェコ事件は西欧の知識人に共産主義に対して冷めた目をもたせた。新聞やラジオの報道だけでは止まない人的交流のインパクトは日本にはないもので、それだけ日本の知識人の目にかかる雲は厚かったと言えるだろう。 


英国では戦時中からソ連のスパイとして活躍していた「ケンブリッジ・フォー」(後に「ケンブリッジ・ファイヴ」)と呼ばれるスパイ網が一人また一人と摘発されながら一人残らずソ連に亡命し、暴露的な書物になり話題にもなっていた。彼らはケンブリッジ大学の学生サークルをコアとする活動家たちで共産主義を信奉しており、何よりもドイツのファシズム政権に正面から対抗する唯一の勢力としてのソ連のために働くことを決意したという。王室を始めとして英国のエスタブリッシュメントは対独戦を避けるべく腐心していた。ソ連の作家イリヤ・エレンブルグの『パリ陥落』(新潮文庫上・中下)は、宣戦は布告したものの戦闘が一向に始まる気配のない戦争を「戦争ごっこ(phoney war)」と批判している。 


「ケンブリッジ・フォー」とは、ドナルド・マクリーン、ガイ・バージェス、キム・フィルビー、アントニー・ブラントの4人で、それぞれについてモノグラフはあったが私の在英中、全貌は明らかでなかった。全体像を扱う著書が現れるようになるまでにはなお時間が必要であった。この4人はそれぞれが有能な働きをしたが中でもMI6の高官に登り詰め、アメリカのCIAやFBIとの折衝に当たったキム・フィルビーが頭目的な役割を果たした。(日本ではリヒヤルト・ゾルゲと尾崎秀実の事件が多くの謎を秘めたまま語り継がれて来たが全容がほぼ明らかになったのはごく最近のことである。) 


私はフィルビーが書いた自伝風の著書“My Silent War(1967)”を読んだが彼が誇らしげに語る成功の数々とそのその反面である西側の悲劇的な大失策に慄然たる思いをしたことを忘れられない。この本のインパクトはその後のスパイ小説に一つのジャンルを築いたとされるほど大きかった。後に独自の境地を開いたジョン・ル・カレの作品もこれにつながるものとされる。BBCはフィルビーの晩年の様子を伝えていた。故郷から遠く、寒気の厳しいモスクワのフィルビーはその口吻とは裏腹に孤独の影を隠せないように見えた。彼らは二つの世界の狭間に生きており、「プラハの春」以前に活動を続けなければならなかった。冷戦の被害者と言ってよいのではないかと思う。スターリンの独裁政権の悲惨があからさまに見え始めたのは、チェコ事件以降のことで、西欧の知識人にはこの事件が契機となって第三の道の模索が可能になったと言えると思う。 


キム・フィルビーまでは一昔前の出来事であったがアントニー・ブラントの場合は70年代の末まで尾を引いた。1979年の末、私が帰国する寸前、エリザベスⅡの美術顧問であったブラントはテレビでインタビューを受けている最中に突然その仮面をはがれたのであった。その衝撃の大きさは計り知れなかったはずだ。画面のブラントは幾分表情を歪めてしばし絶句したがその場でそのまま静かにソ連のスパイであったことを認めた。女王もルネッサンス美術の世界的権威とされたブラントのそのような過去を黙認していたことが知られている。当然ながら、英国ではこのようなことがありうるのかという疑問が残った。 


ジョン・ケアンクロスが第五の男として確認されたのはさらに遅く1990年になってのことだった。彼らは冷戦下のソヴィエトのスパイであっただけではない。ケアンクロスは英国が暗号解読によって入手した情報をソ連側に渡して東部戦線のクルスクで展開された最大のタンク戦でソ連を勝利に導いている。 


「ケンブリッジ・ファイヴ」についてはソヴィエト連邦崩壊後の今日ではより多くのことが知られている。私は未読だが上に述べた私の疑惑に応えてくれるのではないかと思える本にミランダ・カーターの著書『アントニー・ブラント伝』(Anthony Blunt: His Lives、2002年)(中央公論社)がある。行き届いたリサーチでこの複雑な人物の行動の謎に取り組んでおり英米で作品賞を受けるなど惜しみのない称賛を受けている。


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