P大島昌二:「読書遍歴(その10)落ち穂拾い」2024.1.22  Home

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「読書遍歴(その10)落ち穂拾い」

 

戦後間もなく、小学校5年生の頃、落穂拾いをしたことがあった。大家さんである大農家の跡取りの青年に率いられて彼の弟2人、それに私と私の兄、計4人の子供が稲刈りの終った田んぼで落ち穂を拾ったのである。青年は彼の弟たちがいつも怖がっている厳しい男で、「働かざる者、食うべからず」などと働いていない私たちの家族に当てつけるように繰り返していた。ただその日は、私たちを使うために上機嫌で私たちが拾い集める落ち穂を見ては「優秀!優秀!」などとと励ましの声をかけていた。働き者なのはいいが「もういいだろう」という時間になっても作業を続けさせた。辺りは暗くなり地面にある落穂も見えなくなるまで作業は続けられた。

その数日後、まるで予想もしなかったことだが白米3升が家に届けられた。私たちの働きのお礼だというのである。これには驚いた。私たちは報酬を期待していなかったばかりか、2人合わせて3升になるほどの落ち穂を拾っただろうかと思ったのである。これが「働かざる者、食うべからず」の教訓だったのかもしれない。

もちろん、このページの「落ち穂拾い」は違う。少年時代からの「読書遍歴」をたどりながらテーマを探し、つじつまを合わせながら雑文をものし続けてきた。その過程で連想ゲームのようにいろいろなことが脳裏に浮かんでくる。積んであった半死状態の本が生き生きと蘇るので、新しい本を手にしたかのように読み耽ってしまう。完全に忘れていた記憶が立ち現れてくる意外性にも突き当たる。しかしそれらをすべて文中に取り込むわけにはいかない。そこで漏れた話題が「落ち穂」であり、この回はそれをひとまとめにすることにした。

 

『チャタレイ夫人の恋人』を検討しながら伊藤整の『裁判』を読んだことは大きな収穫であった。裁判がどのように進められ、2つの陣営がどのような作戦を練り、法廷でどのような議論が展開されるかが具体的に示されていた。そして最後に裁判官がどのようにして神の如き判決を下すものかを知ることができる。周知のごとく神様は人を救うために存在するわけではない。正義のためにも働いてもくれない。

砂川事件の被告たちの「公平な裁判」を求める訴訟に下された判決については市畑進君も2度にわたって取り上げている。砂川裁判は1957年の起訴に始まり、59年12月に最高裁によって一審判決(伊達判決)が破棄され、その後の差し戻し審で被告7人の罰金刑が確定した。ところが2008年4月になって当時の最高裁長官が駐日大使ダグラス・マッカーサー2世(マッカーサーの甥)と密談を重ね、審理内容などを伝えていたという記録が米公文書館で発見された。それを受けて14年6月土屋源太郎ら4人が再審を請求したが棄却された。今回の裁判は矛先を変えて、19年3月にあらためて「公平な裁判を受ける権利(憲法37条)を侵害された」ことに対して国に損害賠償を求めたものであった。

最高裁長官が係争中の裁判について利害関係者(法律上の被告)である米国大使と密談するなどとは法治国家にあるまじきことである。その判決が今年の1月14日に東京地裁の小池あゆみ裁判長によって下された。東京新聞(1月16日)によれば、小池裁判長は「具体的な評議内容、予想される判決内容まで伝えた事実は認められず、公平な裁判でないとは言えない」として請求を棄却した。疑念を残したままの表面的で一方的な論理である。同じ前提でもいい、密議があった以上、どうして「公平な裁判とは言えない」とならないのだろうか。

原告は控訴の方針というからまだ裁判は終っていないのでここまでで終るが、この裁判が始まるまでの事件と裁判の経緯は吉田敏浩氏が『日米安保と砂川判決の黒い霧』(彩流社(2020年10月)で明快に追跡している。忘れてならないことは「米軍の駐留は違憲、刑特法は無効」とした「伊達判決」の衝撃的な内容である。この判決を時を置かずに覆すために米国から藤山愛一郎外相に要請があり、その後に地裁から一挙に最高裁へという異例の跳躍上告、迅速審議が行われたのであった。伊達判決を棄却した最高裁判決は、その後「高度の政治性を有する」問題は、「裁判所の司法審査権の範囲外」とする法理論(「統治行為論」)を用いた最高裁判例として「いわば日米安保体制と軍事同盟強化のお墨付きとして利用されているのだ。」

田中耕太郎は1960年10月まで最高裁長官の職にあったがその年8月にワシントンの国務省を訪ねてパーソンズ国務次官に国際司法裁判所判事への立候補を表明して「田中の立候補にはあらゆる考慮を払う」と約束された。「文化勲章の受勲者であり、死後も大勲位菊花大綬章を追贈された誰一人知らぬ人のない偉人であった」(「読書遍歴(その9)」)田中耕太郎にはその胸を飾る国際司法裁判所判事と言うもう一つの勲章を手に入れていた。戦後日本の大偉人はこのようにして生まれたのである。

 

裁判や法律に関して実はもう一つの感慨がある。私は以前に日本憲法の成立過程を調べて意外な事実に突き当たっていた(「新憲法はどのようにして生まれたか?(その2)」)。

それは松本丞治が援用した宮沢俊義を始めとする東大法学部の教授たちを主体とする新憲法案が箸にも棒にもかからぬものとしてGHQが急遽自らの案の作成にかかった歴史である。

当初の日本側草案は、ポツダム宣言の趣旨をまるで理解しない、旧帝国憲法に僅かに粉飾の手を加えた旧態依然たるものであった。宮沢ばかりでなく美濃部達吉や金森徳次郎も、そもそも憲法改正の必要を認めない立場にあった上に国民主権どころか「女子参政権は反対なり」と主張していた。ところがその後、宮沢らの憲法問題調査委員会は驚くべき順応性を示してGHQ案があたかも自らの案であるかのように立ち位置をずらせて行ったのである。古閑彰一の『平和憲法の深層』はこの点を指摘しているが、それはあたかも東大法学部が日本の法律体系を取り仕切っているかのような振舞いのように読めるのである。官僚養成学校としての生地が現れたものと言うべきだろうか。

 

「遍歴(その8)ルポルタージュ」で八海事件では事件に材を取った映画『真昼の暗黒』に言及した。映画はまだ最高裁の最終判決以前に作られ、その最後のシーンは死刑を宣告された主人公が「まだ、最高裁があるぅ!」と家族に向かって叫ぶところで幕になる。そしてこの市井の犯罪事件では、彼らは現実においても最高裁によって救われるのである。しかし、日本の検察一体の頑迷さは底知れない。長年にわたって冤罪の証拠が積み上げられてきた袴田事件について控訴されたニュースが出たばかりのところへ、これまた冤罪としか見えない大川原化工機の武器輸出の無罪判決を上告してしがみついている。

冤罪は恐ろしい。ひとたび有罪を宣告されればそこから抜け出すことはこのように至難である。60人が逮捕され、30人前後が有罪となり、4人が獄死した横浜事件の冤罪はよく知られているが終戦後に出された再審の請求は免訴、訴訟打ち切りとされた。法医学者として盛名が高く文化勲章を始めとする数々の叙勲を受けている古畑種基は断定的な鑑定をすることで知られていたが少なくとも3人の冤罪者を死刑に追いやったことが知られている。1958年9月に刊行され後に絶版にされた著書『法医学の話』(岩波新書)が手元に残っているが下山事件の鑑定にも加わっていたことが書いてある。

 

「落ち穂拾い」のつもりが砂川事件、新憲法の制定という稲束に躓いてしまった。ほかに割愛した項目の中には本多顕彰の『指導者 この人びとを見よ』(カッパ・ブックス、1955年)がある。戦時期に聖戦を謳歌することなく、召集もされず、思想犯として検束もされなかった知識人はどのような生活を送っただろうか。本多は言動に注意しつつも出版文化協会のブラックリストに載せられたことにショックを受ける。理由はスパイ容疑で国外に追放されたレッドマンという英国大使館員(東京商大講師を兼務)の新聞記事に注を付ける仕事をしたことである。レッドマンと同時に逮捕されたロイター通信のコックス記者が飛び降り自殺をしたことも報じられていた。保田与重郎に「彼には国賊的思考のほか可能ではない」と烙印を押されていたことも気になっていた。

文筆家、言論人に日和見、二股膏薬が少なくなかったことは否定できない。この著書には多くの人名が出てくるが、彼は彼自身の精神の弱さを告白することによって、東条首相などの極めつけの悪人を除いては、恐怖政治になびいた卑屈な文化人の情状酌量の必要を訴えたいのだという。彼は自らも傷つき、かつ多くの人の寝覚めを悪くさせた。それは世渡りにたけた大人の避ける道である。本多が主として伝えたかったことはこのような時代と人間性の問題であった。食糧の乏しい山中湖に疎開してなれない畑仕事をした。荷車が道端こぼしていった米粒を四つん這いになって家族で拾った情景も描かれている。住民の非人情も身に染みて、もう金輪際山中湖へは行かないと決心している。

 

広津和郎は1963年にそれまで「群像」に連載した「年月のあしおと」を出版して明治、大正、昭和初頭の自伝的文壇史を出している。松川事件の全員無罪の最終判決が下った年である。戦時期の回想はこれに続く「続 年月のあしおと」(1967年6月)の後半にある。「あとがき」には、これは『年月のあしおと』に書き落としたこぼれ話を拾った程度のものである」と書いてある。たしかに文章というものは不完全なもので言いたいことだけでもすべてを書き尽くすことは不可能で落ちこぼれが残ってしまう。

そのこぼれ話も「暗鬱な年代の上に、私は私生活のみだれから、その暗鬱を二重にした。年齢からいえば四十不惑を越えていたのに、不惑どころか、生涯で最も困惑した時代であったといっていい」と総括されている。執念深い女性から逃れてせっかく誰も知らない白河の旅館にたどり着いたのに、一夜明けたらその女性が枕元にいたというくだりが私の記憶にあった。

今あらためて確かめてみると広津は真珠湾以前に、台湾、満州、朝鮮を旅行しており占領下の植民地の様子を伝えていた。報道班員としての徴用は免れたが「台湾、朝鮮、満州を思い出すだけでも日本が占領している土地は見たくなかった。」戦中の幾人かの文人のスケッチもあり、検事の監視下にあって「斎藤茂吉論」を書いていた中野重治が、危険な立場にいながら終始にこにこして暗いところや陰気なところを少しもみせず、あたりまえな顔で生きているのに好感を持ったという。

日本文学報告会での一幕も書いてあるが、海軍報道部長、栗原大佐が招待した会合の様子が面白い。13人の招待者はいずれも錚々たる顔ぶれで欠席したのは病気の西田幾多郎だけであった。憲兵などには決して知らせないから忌憚のない意見を聞きたいということであり、すでに敗色濃厚な1944年6月というせいもあって遠慮のない意見が飛び出した。広津は日記メモによれば、鈴木文史郎、馬場恒吾が明確な政策批判を述べ、志賀直哉、武者小路実篤が東条批判を口にする。信時潔はドモリであったが、栗原にむかって真剣な語調で「あなたが憂国の士であることはわかりますよ。併しあなたがご心配になるよりももっともっと重大ですよ。いまここで意見を述べられた方々とあなたの考えとの間には、まだまだ径庭(広いへだたり)がありますよ」と言って両手を上下に開いて見せた。愛国歌人の斎藤茂吉は何を思っていたのか口を開いていない。

 

私たちが落穂ひろいを手伝った青年の家には彼の祖母がきれいな花壇を作って四季の花を楽しんでおり、庭には鯉を放った大きな池があった。梅雨時には蛙の卵が白い半透明のジェリーに包まれて水面に広がった。それが無数のオタマジャクシになり蛙に成長するのである。蛙は普段は、陸に上がって甲羅干しをしているが身体が温まると水に飛び込む。蛙はこのように身体が温まった順に間隔を置いて飛び込むので水音は断続的に起り一つだけということはない。

離れの廊下には講談社の講談全集が20冊ほど積んであり私はそれを全部読んでしまった。母屋の高い壁際の棚にも数冊の本が並べてあってその一冊は井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』であった。私はそれも読みたかったが黙っていた。後にジョン万次郎は私の尊敬する日本人になった。尊敬しない日本人はもちろん田中耕太郎である。

 


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