P大島昌二:「読書遍歴(その13)敗北を抱きしめて(東京裁判)」 2024.2.27  Home

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「読書遍歴(その13)敗北を抱きしめて(東京裁判)」 

 

ポツダム宣言がもたらしたものの一つは日本国憲法であった。(これについては「押し付け憲法論の限界」としてこの2月10日に論じた。)もう一つはそれに踵を接するようにして開かれた東京裁判である。新憲法と同様にこの裁判についても勝者が押し付けた裁判であるという批判が根強い。 

「なぜ日本はあのように無謀な戦争に乗り出したのだろうか?」これはこれまで、憲法論議に増して広く論じられたが、東京裁判は戦争が日本の軍国主義者によってどのように企まれて起ったかを解明して一つの結論を出した。日本の国内ではそれを「東京裁判史観」と呼んで多彩な議論が交わされてきた。 

私はこのネットのページを借りて、「昭和天皇拝聴記」を手掛かりにして戦中戦後の昭和天皇の政治的役割を検討するという作業を一段落させたばかりだった。(「コロナの季節の拾い読み」 11May 2020)。そこには次のように書いてある。 

「当然、日本からする対米英蘭に対する宣戦布告も課題に取り入れました。ただ常に頭の片隅では、アメリカは日本の攻撃を待っていた、あからさまに挑発こそしないまでもお膳立てをして日本が罠にかかるのを待っていたのだという前提を否定できずにいました。もちろん、いろいろな人がいろいろな議論をしていますが決定打はありません。罠だったとしても敢えて(引くべき時に引かずに)それに飛び込んだのは飛び込んだ方に責任があるとしか言えません。」 

議論はこのように進むのですが、私は引き続いてアメリカの大作家ゴア・ヴィダルが『帝国の物語』という五部作の最終巻『黄金時代』の末尾で次のように書いているのを紹介していました。 

「当時ルーズベルトが日本にわれわれを攻撃するよう仕向けたという噂が流れたことは広く知られていた。事実、われわれが誇りとする歴史家、チャールズ・A・ビアードはすでに1941年に『ルーズベルト大統領と来たるべき戦争』でこのことに触れている。米帝国の擁護者は50年にわたって(今日まで)この学者を抹殺したままです。しかし彼の著作は消すことができません。最後に、ルーズベルトはこの運命の(避けがたい)第一撃が、例えばマニラなどの他の基地ではなく、ほかならぬ真珠湾に加えられることを知っていただろうか。それは不明としておこう。」 

ルーズベルト大統領についてはもう一つ気になることがある。ジョン・ダワーは敗戦後の日本を描いた名著『敗北を抱きしめて』( “Embracing Defeat”,2000年8月)の前に『容赦のない戦争』(War without Mercy” (1986)を著わしている。そこでルーズベルトは、日本人が邪悪なのは彼らの頭蓋骨の発達がわれわれよりも約2,000年遅れているというスミソニアン博物館の発生人類学部長の説を信じていた様子を伝えている。ルーズベルトは日本人をこの遺伝的形質の呪いから解放するには他人種との混血による外はない考えていた。これは前世紀の非科学的学説の生命力の強さを示すものでもあった。 

  

さて、私は「リスナー(The Listener”)に掲載された1通の投書も切り取っていた。われわれが生まれる前の日本通のイギリス人(Malcolm D. Kennedy)の投書です。それは歴史家のA.J.P. テイラーが”War Lords”(戦争指導者)と題して軍事指導者としての、スターリン、ルーズベルト、チャーチル、昭和天皇の4人を一人ずつ俎上に乗せたテレビの連続放送についてのコメントです。(テイラー教授は昭和天皇を免責しています。) 私はこの投書の写真を掲載しましたがその肝心な部分はこうなっています。 

「1935年に出版した『日本の問題』で私は、領土の拡張は悪であるとの烙印を押され、法律によって移民が阻まれ、関税によって産業が骨抜きにされるのであれば、深刻な事態が起こるのは時間の問題であることを力説しました。まさに事態はその通りに推移したのです。実際問題として、それは多分に日本のこれらの主要な三つの安全弁を西洋列国が封じ込めた結果でした。」 

東京裁判についてのこのような正統的な異論は長年にわたってくすぶってはいてもこれまで公然とした批判にはならなかった。ヒットラーやムッソリーニに伍して西欧民主主義国家に武力をもって挑み、世界に大惨事をもたらした罪には情状酌量の余地はなかったからである。しかし、ここ数年にわたる世界の言論は西欧の植民地主義を批判的に再検討する機運が高まり、その余波として「勝者による裁判」にもその内部から疑問が呈されるようになった。ここで深く立ち入ることはできないが占領下に翻訳の出版を禁止された『アメリカの鏡・日本』(1948年、邦訳1995年)で著者のヘレン・ミアーズの述べていることは近代日本という鏡に映るのは西洋自らの姿であるということである。 

 

いずれ翻訳が出されるだろうが昨年末に発行されたギャリィ・J・バース教授(プリンストン大学)の“Judgement at Tokyo: World War II on Trial and the Making of Modern Asia” (2023年)は英語圏の新聞の書評に大きく取り上げられており、その幾つかの書評を読む限り、欧米では広くは知られなかった東京裁判の全容が、ニュルンベルグ裁判と並ぶものとして、欧米の読者にも伝えられることになるだろう。 

日本の経済・社会に精通しているビル・エモットはファイナンシャル・タイムズ紙の評で、著者は本書のために10年の歳月を費やしており、本書のように長大でまたバランスのとれた東京裁判の研究書は今後書かれることはないだろと絶賛している。これまでの無関心が払拭されるということだろうか。彼はまた、この裁判を勝者による裁判として片付けてしまいたい日本の歴史修正主義者や国家が統制する宣伝から一歩も踏み出せない中国の歴史家には読みたくない本であろうとも述べている。 

本書には、裁判のあいまいな法的根拠、判事11人のうち英、仏、蘭などの西洋植民地国家が多数を占めていること(中国、フィリピンは各1人、日本人はいない)、東南アジアの民衆が受けた被害への配慮の乏しいこと、などが指摘されているという。議論は沸騰し多数決による判決は容易に得られたものではなかった。日本側の反論も無視し難かった、 

被告全員を無罪としたインドのラダビノード・パール判事の1,230頁に及ぶ少数意見も仔細に検討されている。パール判事は、裁判の検討対象外に置かれていた日本のめぼしい都市のすべてを猛火で包み、広島、長崎へ原爆を投下した連合国側の問題を引き合いに出している。これによって日本の論者はその無罪論の論拠を拡充、歪曲してパール判事を一方的に英雄に祭り上げていると指摘するのはエモット氏ばかりではない。靖国神社にはパール博士の顕彰碑が建てられている。 

ウイキぺディアには以下のような記述がある。パール博士は広島で開かれた「世界連邦アジア会議」(1952年11月)で広島に招かれた際に原爆慰霊碑に詣でた。そしてそこに刻まれた文字「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」を説明されて耳を疑ったという。その夜、パール博士は宿泊先のホテルに訪ねてきた本昭寺の筧義章住職の依頼を受けてもう一つの碑文を書いた。「大亜細亜悲願之碑」と題した碑文はベンガル語と日本語で刻まれ本昭寺の境内に建てられている。 

「抑圧されたアジアの解放のため その厳粛なる誓にいのち捧げた 魂の上に幸あれ ああ 真理よ あなたは我が心の中に在る その啓示に従って我は進む 一九五二年一一月五日 ラダビノード・パール」 

History Today 2月号のクリストファー・ハーディング(エディンバラ大学教授)は、バース教授の、連合国の指導者の中には「真の勝者の裁判」として裕仁天皇を訴追し、おそらくは絞首刑にすることを望んだ者もいたであろうという言葉を紹介している。戦勝国の国民の大多数が日本人を罰したいと望んでいた。バース教授は、アメリカ人の85%が日本への原爆投下に賛成したという。日本人の方でも罰せられても仕方がないと思っていただろう。「過ちは繰返しませぬから」という自分の姿がどこにも見えない碑文はそこから生まれているのではないだろうか。 

問題の性質上、評論は目下戦われているウクライナ、パレスチナの侵略戦争との類似性への言及が避けられない。英紙ではほかにオブザーバー紙のニール・アシャーソンの寄稿(1月21日)が書評に徹している点で、また詳細で目配りが行き届いている点で最も優れている。以上の論評者たちはそろって、ギャリー・バース教授の著書は、これまでの東京裁判とその結果についての理解に変化をもたらし深化を迫るものとする。しかし本文だけで692頁、注釈、索引をつけて890頁に上る大著でありその内容の紹介はどうしても部分的にならざるを得ない。 

ここまで主に英紙を中心にして書評を見てきたが米紙は購読していないので読むことができなかった。唯一ワシントンポスト紙を無料で読むことができた。同紙23年10月20日号でロバート・D・カプランは、先ずドイツとイタリアのファシストに捉えられた捕虜の死亡率が4%であったのに対して、日本軍の捕虜の死者は27%に達しているという統計から始めて日本軍の残虐さを伝える。またそれがアジア人や白人に対する人種差別によるものであることを強調している。その他は英紙の評に付け加えるものは乏しい。末尾を「外交という分野で道徳の占める位置が定かでないこの極めて不完全な世の中でトルーマン政府の取った政策はほぼ正しかった」と締めるなど、裁判の正当性を主張していると見られる。ニューヨーカー誌のイアン・バーマの長文は著書の立場や見解よりは第二次大戦の日本の歴史に重点が置かれている。アトランティック誌のネット版には評論と並べて著者へのインタビュー(音声版)があるがいずれも有料なので、あえて読まなかった。 

 

東京裁判では、日本国憲法改正問題で詳述した、戦後の日本の統治には天皇の権威を必要とするという占領当局の認識がやはり大きく作用した。そこで一方では国民全体に罪の意識を植え付けながら裁判では一部の軍人が全権を掌握して天皇以下の全国民をアジアへの武力進出に巻き込んだという筋書きを作り上げた。 

日本人に対する米国内の偏見はとりわけ戦中を通じて上昇線をたどっていたために、バース教授が「偉大な歴史家」と高く評価するジョン・ダワー教授は、『敗北を抱きしめて』の中でこの戦中の悪意に満ちた偏見とは対照的な戦後の両国の良好な協力関係をパラドックスとして指摘していた。バース教授によれば、それを解く鍵は国民すべてを野蛮人として断罪するのではなく、一部の軍国主義者にすべての罪を負わせることによって国民が彼らを排除する機会を与えた東京裁判の判決にあるという。日本人は正に「敗北を抱きしめて」戦後の建設に立ち向かうことができたのであった。 

東京裁判に先行するニュルンベルク裁判は1945年11月~46年10月まで行われた。(アメリカによって続けられた「ニュルンベルク継続裁判」はさらに49年4月19日まで続けられた。)東京裁判はより長期にわたっており、1946年4月から48年12月までの2年半、部分的にニュルンベルク裁判と並行して行われた。憲法改正も同時進行的であったことを考えると、明日の糧に追われる国民の頭上で強烈な変化の風が舞っていたと言わざるを得ない。 

東京裁判では7人が死刑、16人が終身刑となった。(私は真空管ラジオが伝える“death by hanging”という判決の言葉を両親といっしょに聞いたことを記憶している。)これに対して、ニュルンベルクでは24人が訴追され、うち12人が死刑に処された。ニュルンベルクの場合も東京と同様に裁判の合法性についての複雑な議論が残された。東京裁判はその副産物としてそれまでの戦時国際法「ジュネーヴ条約(1929年締結)」の全面的改正をもたらした。 

 

以上の内容をまとめながら読まないでも済ませられると思っていたこの本をやはり読まねばならないと思うようになった。少なくとも手許において折にふれて参照すべきではないだろうか。戦争責任の在り処についてはこれまで数十冊の本を読んでいる。日本の戦後史についての私の知識はほとんどがその読書体験から成り立っている。そこでは東京裁判は一つのエピソードのようなものであった。バース教授の本を読めば、戦争責任の在り処を曖昧にする働きをした一つの源泉として東京裁判が浮かび上がってくるだろう。「東京裁判史観」という言葉があって戦後現れた日本近代史はそれに支配された外国製の「自虐史観」と貶められるがその史観はこの曖昧化も含まなければならないことになる。 

以上のように”Judgement at Tokyo”の評を読んだ上で私は結局この本を手に入れることにした。アマゾンを見るとこの本は18冊の在庫があり注文すれば翌日手に入ることがわかった。巻末の「謝辞」を読むと多くの人がこの本の制作にかかわっている。日本人の協力者も少なくない。東京裁判についての研究によって寄与している人がいるほかに、著者のために資料を翻訳したり、著者の日本での調査に通訳として帯同したりした人たちもいる。本書の制作に10年の歳月をかけたというのは口先だけのことではなく、実質は10年どころではないと理解しなければならないと思う。 

 

 

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