P大島昌二:読書遍歴(その15)『開戦神話』井口武夫「ハル・ノート」など 2024.4.5    Home

「遍歴(13)敗北を抱きしめて」は日本軍国主義の一方的な断罪に対する疑問を述べながらギャリィ・J・バース教授の大著『東京裁判』の紹介へとテーマがずれてしまった。バースの著書によれば勝者である連合国の側でも英連邦諸国がウエッブ裁判長とキーナン検事の解任を求めてマッカーサーと衝突するなど足並みが揃っていたわけでもなかった。「遍歴」がこの裁判にそのまま踏み入ったならば、十分な装備なしで前途にそびえる山岳に分け入る愚を犯すところであった。 

「遍歴(14)朝河貫一『日本の禍機』」の朝河の対米戦争回避のための孤軍奮闘は同種のテーマをたどったことになるが、抗争の一方の相手方であるアメリカ政府の対応に触れるまでには至っていなかった。『日露衝突』に見る如く朝河が絶対的な平和主義を説く者でなかったことは注目に値する。ハル・ノートの分析、ルーズベルト大統領の国内世論対策、英国、および中国からのアメリカ政府への外交圧力も課題として残してしまった。 

朝河の伝記を読み終わった頃、NHKのルーズベルトの親書をめぐるドキュメンタリーの紹介記事を見つけたのでそれを(14)のレポートに添付した。阿部善雄教授の著書によって、坪内逍遥や徳富蘇峰など、教科書でその名を知るだけの多数の歴史的人物が動き出すのを見る楽しさを味わったが、NHK放送の紹介記事によって朝河の面貌や資料の写真を目の当たりにすることができた。 

知る人が少ないとは言っても朝河の出身地である地元の福島県では多少はその名を知られていた。私は戦争直後の中学校で安積(あさか)高校には「朝河の桜」と名付けられた桜の大樹があると教えられた。半信半疑ながら、朝河が単語を暗記した英語の辞書の頁を次々と食べて残ったカバーをその桜の根元に埋めたというのである。阿部の本にもこれとほぼ同じ逸話が紹介されている。 

 

『ハル回顧録』(1948年)は、1933年3月から44年11月まで12年近くルーズベルト大統領のもとで国務長官の要職を占めたコーデル・ハル(1871~1955)が遺した回顧録である。戦争回避のための日米交渉は野村吉三郎大使が着任した41年2月に始まる。ハルの長期にわたる公人としての記録に占める対日交渉については同書全36章のうち3章を占めるが邦訳で311頁中22頁に過ぎない。 

その回顧録によれば、彼が国務省を訪れた野村、来栖両大使から事実上の宣戦布告とされる「対米覚書」を手渡されたのは真珠湾攻撃の火ぶたが切られてからすでに1時間以上も後のことであった。書面を手渡されたハルはそれに目を通すふりをした。内容はすでに分かっていたがそれを表に出すことは避けねばならなかった。14通に分けて東京からワシントンの駐米大使館へ発信された「対米覚書」はそれ以前の暗号通信と同様にアメリカ政府によって解読されていた。軍部の工作によって最終14便を意図的に遅らされた覚書を持った2人の大使を待っていたのはハルの怒りと侮蔑の言葉であり彼らはハルの顎の一振りによって部屋を追い出された。 

ハルの回顧録には十分な説明がないので井口武夫著『開戦神話 対米通告はなぜ遅れたのか』(2008年7月)によって「ハル・ノート」に至る日米交渉を概略することにする。 

近衛首相がルーズベルト大統領との首脳会談を達成できずに内閣を投げ出した後、東條英機内閣が成立した(10月8日)。東條内閣は天皇や重臣の意を受けて10月10日を日米交渉の打ち切り期限とする9月6日の御前会議での決定(帝国国策遂行要領)を白紙還元して、日米開戦回避の最終的な交渉を11月30日まで行うこと、また交渉が妥結すれば、12月1日零時を期して行う予定の武力発動を中止する決定をした。 

日本の南仏印進駐に対応して発動されたアメリカのドル資金凍結と対日石油禁輸によって窮地に陥った日本が石油禁輸解除と引き換えに11月7日にアメリカに提示したのが甲案で、その眼目は、中国駐兵を一定の地域(北支、内蒙古の一部地域と海南島)で25年間認めるならば日本は他の地域から2年以内に撤兵するというものであった。アメリカは当然のごとくこれを拒絶した。次善の案である乙案(暫定取極)は11月20日に提示された。それは仏印以外のアジア太平洋地域への武力進出はしない、合意成立により石油供給の約束がなされれば日本は南部仏印から北部仏印に移駐し、支那事変解決後に仏印全土より撤退するというものであった。中国からの撤兵は暫定的に棚上げされた。 

日本が資源確保のためにアメリカとの関係修復を望んだのに対してアメリカは欧州戦線の対英援助の本格化を図り、さらには対日戦に備えるための時間を稼ぐ必要があった。アメリカは乙案に関心を示し、ハルは野村・来栖両大使に口頭で、石油禁輸と経済制裁を3か月間解除し、その延長条項も設ける暫定取極案を示し英蘭豪中の同意を求めた上で正式に提示すると約束した。このアメリカの譲歩案は英国と中国が難色を示したために期限である11月末日までの署名が不可能になった。これによって日本政府は12月1日に開戦する決定に基づいて行動を起すことになった。交渉期限を延長すればモンスーンの季節に入り、マレー上陸作戦が困難になることを陸軍が恐れたからである。 

ルーズベルト大統領は議会内の共和党の孤立主義分子に手を焼いていた。そのためハルの譲歩案よりも共和党の巨頭であるスチムソン陸軍長官の対日強硬論に引きずられやすかった。満州事変当時の国務長官であったスチムソンは、日本は国際条約を遵守しない国であり、暫定取極はアメリカを油断させるための手段に過ぎず、協定はいずれ廃案とされると危惧していた。そのスチムソンも開戦を先に延ばす必要は痛感しており、日本の南方軍事行動が凍結されることを条件に結局はハルの提案に同意した。ところが、スチムソンが同意したと同じ25日の午後、日本の5個師団が上海から50隻の輸送船で台湾南方を航行中という報告をうけたルーズベルトは「日本が休戦交渉をしながらインドシナに大軍を送るのは背信だ、これで情勢はすっかり変わった」と述べたという(『スチムソン日記』)。 

アメリカは暗号の解読によって日米合意が期限までに成立しなければ東南アジアへ武力進出する日本の決意を把握していた。『ハル回顧録』は日本政府から駐米大使館への電文がどのようなものであり、それをどのように正確に解釈していたかを詳細に記録している。当然ながらハルも、日本との間で暫定取極を結んでもタイへの侵攻が中止されることには強い疑念をもっていた。この段階では彼らの視点は日本軍の南仏印から他のアジア地域への展開に集中していたように見える。 

ルーズベルトは27日に野村大使に向かってその日本のジレンマを隠さずに伝えている。またハルは駐米中国大使胡適に暫定合意を受け入れるように22日、24日の2回にわたって説得を試みている。これに対して胡適は、現状では中国は対日戦で3カ月持ちこたえることも難しいとして逆にハルを説得しようとした。蒋介石はチャーチルにも窮状を訴えたと見えて、チャーチルはルーズベルトに親書を送り蒋介石を見殺しにすれば対日包囲網の一角が崩れると主張した。チャーチルはこのようにして蒋介石の反対を利用して日米を開戦にむけて誘導したと判断される。チャーチルは母親がアメリカ人であることもあり英国内では親米をもって知られており、ルーズベルトと友好を深めて、外交経験に乏しいルーズベルトの心を巧みにとらえていた。 

ハルの暫定取極案は英国と中国の強い反対で立ち消えになった。その後に来るのが悪名高い「ハル・ノート」である。ルーズベルトが暫定取極合意を断念した際、ハルは駐米英国大使ハリファックスに強い不快感を示している。チャーチルが蒋介石を説得せず、むしろその主張をアメリカに取り次いだことについて、「米英の外交が中国の事情で決定されてはならない」と述べて腹立ちを隠さなかった。太平洋艦隊情報部長であったレイトン提督の著書(1985年、”AND I WAS THERE” )によれば、ハルはルーズベルトの緊急命令でやむなく己の意思に反して暫定案を放棄した。また国務省職員だったハリソンのメモによれば「長官はその日、突然、大統領に呼ばれてホワイト・ハウスの緊急会議に出かけた。その後えらい剣幕で帰ってきたが、『あそこの連中は何もわかっていない。プライドが高く、力もある民族に、最後通牒を与えてはいけない。日本が反撃してくるのは当然じゃないか』などと、繰り返しつぶやいていた」という(『ルーズベルト秘録』産経新聞取材班、2000⃣年12月)。 

日本側はどうであったか。ハルの暫定取極案は乙案そのものではなく、僅か3カ月間の短い期間に限定したもので、3か月後には石油を最禁輸する裁量権をアメリカが持つ。長期自給体制確立に懸命な軍部がこれを受諾できただろうか。東條は暫定合意が成立すれば南部仏印からの撤兵は確実に実行されると言明していた。当時の軍務局長佐藤賢了は巣鴨プリズンに拘留中、東條に、アメリカの暫定取極案が示されていたら日本は受諾したかと質問したら「ウーン」といって彼が黙ったと記している(『軍務局長の賭け』芙蓉書房)。 

 

暫定取極案に代わって突如「ハル・ノート」が提示された。「ノート」と言われるようにこれは国務長官ハルの「覚書」でありアメリカでは「1941年11月26日アメリカ提案」あるいは”Ten Points”と呼ばれる。これはまた先のアメリカ案の暫定取極だけでは日本のその後の脅威を排除できないからそれとの「パッケージとして」暫定取極を作り、暫定期間中に包括的協定締結の交渉を進めるのがアメリカの方針だった。冒頭の“Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment”(厳秘、合意の基礎となる非拘束的な試案概要)という記載がそのことを示している。期限が付されておらず、従って最後通牒とは言えないものだった。「それが署名直前に暫定取極を撤回する事態になり、取極の本文から付属書の包括協定の概要の部分だけが切り離されて独自の包括的提案としてハル・ノートの形式を取ったのである。」 

その内容は日米交渉当初の要求の最大限を示したもので(1)中国および仏印からの全面撤退、(2)日華特殊緊密関係の放棄、(3)三国同盟の死文化、(4)中国における重慶政権以外のいっさいの政権の否認、を骨子としていた。 

新しい「ハル・ノート」に驚いた野村、来栖両大使は、回答期限の迫った今となって、従来の話し合いを白紙還元したいというハル提案は本省に取り次げないと応酬した。その直後の野村・ルーズベルト会談でルーズベルトは「日米両国が根本的主義、方針が一致することをあらためて確認することが暫定取極の前提である」と説明したが日本がそこまで戻ることはもはや不可能だった。 

ハル・ノートがなぜこのようなものになったかは謎としてよい。井口はその背景には多面的な要因があるとして次のように述べている。「アメリカ民主主義の感情的なプライドや大衆の好戦主義という性格がある。十一月末日までの交渉期限で妥結を迫る日本軍部の威嚇外交に対して、対日戦準備の時間を稼ごうとしたアメリカが、プライドにかけて軍国主義日本に屈せずとして見せた感情的反発と、逆に威嚇する恫喝的態度で経済的弱者の日本から譲歩を引き出したかった側面もあった。」 

 

これまで統帥部との闘争に明け暮れて交渉に励んできた東郷茂徳外相は、ハル・ノートが満州の放棄など「従来の交渉要件に含まれない承諾不能の要求を持ち込んだ」として失望のどん底に落ち込み、吉田茂や元外相有田八郎の交渉継続の助言に耳をかさなかった。木戸幸一内大臣もこれで万事休すと受け止めた。 

このように戦争回避派は決定的な打撃を受けた。翌29日に開かれた重臣会議では、情報を遮断されていた出席者たちからは具体的な意見は出されず、戦争に危惧を抱く意見のみが出された。米内光政が「ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならないように」と好戦主義を批判したことはその後の推移を予言したものとして記憶に残された。乙案を母体とする暫定取極で妥結が成立することを危惧していた軍部はハル・ノートを「天祐」と捉えた。いずれにせよ、ハル・ノートが発出されるよりも前に、日本海軍の機動部隊はヒトカップ湾を離れて真珠湾にむけて出動していた。 

ギャリィ・J・バース教授の『東京裁判』はこの後の日米開戦の「聖断」への道筋について書いている。11月30日、高松宮は予想される戦争に海軍は悲観的であると警告した。天皇は海軍大臣、軍令部総長、東條英機(陸軍大臣を兼務)の意見をあらためて聴いた。「木戸日記によれば、海軍の相当の確信ある奉答を受けて天皇は計画を予定通り進めるよう首相に伝へよと命じた(『木戸日記』1961年11月30日)。天皇の最側近が、天皇自らがアメリカを攻撃せよと命令を下したというのである。GHQにとってこれ以上に不都合な証言はない。しかし検察官はこれを読み上げて記録に残しただけで先へと進んだ。. 

ハルが対日交渉を断念したと聞いてルーズベルトは「交渉は中断したが素晴らしい対日ステートメントを提示した」と得意げに述べた。それは在野の朝河貫一が対米戦争の回避のために一縷の望みをかけた大統領から昭和天皇へ宛てた親書を指していた。その親書が徒労に帰したことはすでに述べた(読書遍歴(その14)朝河貫一と『日本の過機』)。 

 

真珠湾奇襲に至るまでの日米交渉をめぐって、主として井口武夫の著書『開戦神話―対米通告はなぜ遅れたのかAmazonによって検討した。ただここで明らかにしておかなければならないことは、同書が明らかにしていることは、その副題が示しているように、ハル・ノートに対する日本政府の返信「対米覚書」がなぜ適時にアメリカ政府に伝達されなかったかについての外務官僚による大掛かりな隠蔽工作である。それによって「対米覚書」手交の遅れは現地大使館の担当官の怠慢、無能によって翻訳が遅れたからであるという説が通説として流布された。 

四部構成から成る井口の著書の圧巻は最終第4部の「対米最後通告の性格と最終覚書の手交遅延の解明—手交遅延はルーズベルトの天皇宛親電が惹起」である。著者にとっては日米交渉の詳細はその解明に進むために必要な序曲であったと言ってよい。そこで明らかにされた真実については以前に掲載した「小林忍日記と『開戦神話』など」(2018年9月18日)で紹介した。ここには便宜上その要約のリンクを添付した。 

 

 

“Pearl Harbor” は「真珠湾」として私の脳中に入り、日本の赫赫たる戦果を象徴するものであった。やがて敗戦を迎えてそれは「パール・ハーバー」へと変化した。オアフ島でタクシーにパール・ハーバーと言うと「どっちのパール・ハーバーか?」と問い返される。アリゾナ記念館のある観光施設とそのさらに先にある海軍基地本部の2つのパール・ハーバーがあるからだ。 

2度目のハワイ訪問の折であった。ワイキキの港で偶然パール・ハーバー行きのボートがあるのに気がついて何ということなしに乗ってみた。オアフ島の沿岸から、入り組んで奥深い港の奥まで小さなボートで細い水路を巡りながら、いつまでも、いつまでも、航行した。小さなボートにアメリカ人と膝突き合わせて向いあい、両隣りとは肩を並べて座っていた、皆無言なのは異様とも言えたが1人だけの日本人を疑いの目で見るようすもなかった。ボートは軍港の中を走るらしくその日は観光に開放されてまだ間もない頃のようだった。 

いま手許にあるブックレットには「歴史への3時間クルーズ」と書いた紹介があるが、これはその後、友人と一緒の3度目のパール・ハーバー見学の折に入手したもののようだ。そこにあるADVENTURE Ⅴ号の写真は2階建ての観光船、海路で行くパール・ハーバーは、いかにもハワイ観光の頂点のように見える。(6/4/24) 

 

 

👆️Top    Home

「開戦神話」の著者(井口武夫)は下記文中の井口貞夫wikiの子です。

 

小林忍日記「昨日のこと」と「開戦神話」など 

 

外務省は1995年の外交文書公開に際し、大使館の通告遅延責任を強調することによってこの問題の幕を閉じようとしたが、肝心の対米通告原文は公表していなかった。しかしその後、本書の著者井口武夫の5年以上におよぶ要求の結果、2004年10月14日に原文文書は公開された。 

本書の副題は「対米通告を遅らせたのは誰か」である。本書は通告の遅れがどのようにして生じたかを第一次資料によって明らかにしている。そのために著者は外務省あるいは防衛庁に残る膨大な資料を十数年にわたって博捜し、また元外務官僚との面接を行っている。要所に友人知己も多く、元大使の肩書は大いに役立ったと思われる。 

そこから浮かび上がって来るシナリオは以下のようなものである。外務省は、参謀本部の圧力の下に、故意に対米通告を遅らせた。野村大使による通告がなされたのは攻撃開始の1時間以上後であり、それによって真珠湾の奇襲作戦は成功した。(日本側の交渉打ち切り通告の手交はワシントン時間12月7日午後1時と訓令されたが実際には真珠湾攻撃の開始のあと午後2時20分であった。) 

戦後、東京裁判を契機として戦争責任問題が浮上するにつれて開戦までの経緯が吟味され、その過程で対米通告の遅延は現地ワシントンの日本大使館が電文の解読に手間取ったためとされた。事件発生50年後の1995年の外務省文書で罪を負わされたのは当時、駐米大使館の事務責任者であった井口貞夫wiki、奥村勝蔵の2名であるが彼らはいずれもすでに故人であった。 

井口貞夫wikiは戦後外務次官、駐米大使を歴任した外交官として著名であった。東京商大中退で外務省に入省し、開戦時は在米大使館勤務であった。もう一人の奥村勝蔵も東大卒業後外務省に入省し、後に外務次官を務めている。天皇とマッカーサーの会見の通訳を務めたことでも知られる。開戦通告の遅延責任は彼らのキャリアに影を残したように見えない。 

この欺瞞による実際の責任の隠蔽は戦争の当事者であった政治家、軍人たちの証言、マスメディアの報道、学者や評論家の著作に浸透していた。隠蔽努力の影響は東京裁判の裏工作にまで及んでいた。今日に及んでも「戦争責任論」のタネが尽きないのは事実の隠蔽、捏造のせいであるといってよい。このような曲説を正すことなしに戦争責任を論ずることはできない。 

本書によれば「昭和天皇独白録」で浮上した寺崎英成は東京裁判の裏工作に関わっていた「スパイ」だった。松岡洋右は東郷茂徳によって代表される外務省の罪を背負わされた。(松岡の責は別のところにある。)多くの登場人物の中で著者は、とりわけ大きな責任を回避し続けたまま世を去った加瀬俊一(出先機関のミス説を戦後一貫して助長した)、戸村盛雄、瀬島龍三(いずれも参謀本部作戦課員。親電解読の遅延を工作した)を強く指弾している。彼らは真実を隠蔽することによって後世に残すべき歴史を冒涜したと著者はいう。 

奥村勝蔵はこれとは別に、天皇とマッカーサーの会見内容を漏らしたとして政官界の批判にさらされた。しかし『入江相政日記』には以下のような記述がある。1975年9月、会見内容漏洩の件について奥村は「天皇に誤解されていては、自分は死にきれない」と、死の床にあって天皇にお伺いをいただくよう懇願した。昭和天皇はこれに対して、「奥村には全然罪はない、白洲(次郎)がすべて悪い、だから吉田(茂首相)が白洲をアメリカ大使にすゝめたが、アメリカはアグレマンをくれなかつた」と述べて、奥村に非はないと承知していることを示した。 

(注)(米国は)「何よりもハワイの真珠湾攻撃をだまし討ち、侵略として裁きたかったが、立証できなかった。日本が開戦前に宣戦布告をしようとし、手違いで通告が遅れたことが、裁判で認定されたためです。」(保阪正康、東京新聞15年11月29日)