P大島昌二:読書遍歴(その16)『吉田茂とその時代』ジョン・ダワー2024.4.29 Home

14   2024.5.3

 戦後を忘れてしまった世代にとっては別かも知れないが、われわれの世代にとっては歴代首相の中で記憶に最も深く残るのは吉田茂(1878~1967)である。鈴木貫太郎の終戦内閣に続いて戦後の内閣は、東久邇宮稔彦から幣原喜重郎へとバトンが渡った後に、吉田茂が戦後第三代の首相として第一次吉田内閣(1946年5月~47年5月)を組成した。その後に片山哲、芦田均と短命の2代の内閣が続いた後に再び吉田内閣が生れ、そのまま第2次から第5次まで6年(1948年10月~1954年12月)にわたる長期の政権を担った。

第2次吉田内閣からその瓦解までの間だけをみても私の12歳から18歳、中学入学から大学1年にかけての時期に相当している。首相と言えば吉田茂のことであった。それだけ吉田が記憶に鮮明なのは国民が等しく貧困にあえいでいた時代は政治が今よりも人々に身近だったのだと思う。円安でインフレが身に迫る今、政治資金スキャンダルにまみれた政権党は安閑としていられるだろうか。

かの時の世界のニュースといえば朝鮮動乱である。私はラジオのひっ迫したアナウンサーの声によって釜山まで追い詰められた国連軍の敗勢に驚き、仁川上陸の奇襲作戦(1950年9月)によって一挙に形勢が覆えされたことを知って胸をなでおろした記憶がある。この隣国の戦争を除けば日本は大方の世界ニュースからは切り離されていたというべきかもしれない。インドのネルー首相が上野動物園に一頭の子象を寄贈してくれたニュースを読んで私はインドを豊かな国だと錯覚した記憶がある。もちろんパンダでは騙されなかった。

吉田茂は維新の志士竹内綱の子として生れ生後9日にして、約束に従って竹内の親友吉田健三の養子となった。養父吉田健三は事業家として財を成し、嗣子として迎えられた茂は9歳にして当時としては莫大な50万円と評価される財産を相続した。吉田茂が晩年まで長く住んだ「大磯御殿」は健三の夏の別荘であった。


吉田茂の実父竹内綱には15人の子があり茂はその5男であるが母の身元は不明で、おそらく芸者であったろうと言われる。茂本人は実母に言及することを用心深く避けていた。養父の吉田健三が40歳で亡くなった後は養母士子(ことこ)によって育てられた。士子はすぐれた門弟を輩出した高名な儒学者佐藤一斎の孫であり、きびしく意志の強い人だった。吉田は晩年になっても幼年時代について語ることには驚くほど用心深かったが養母については次のように述べて珍しく自己分析をしている。吉田はその母に「気位の高い子だ」としばしばいわれていたせいか「いつか本当に気位の高い子になってしまった。養母を思い出すたびに、私は気位の高い子になったのは養母のお陰と感じている。これが他人の目からは傲慢と見られ、我が儘と思われ、ワンマンなどと言われるような性格になった所以であろう。」(吉田『世界と日本』1963)

吉田は長じて外交官となり奉天の日本領事館に勤務した後に牧野伸顕の長女雪子と結婚する。いうまでもなく牧野は大久保利通の息子であり、日本の新興エリートの最上層部の代表格であった。吉田にとって牧野伸顕は外交官として先輩でもあり出世コースにつながるものであったろう。牧野が義父として魅力ある存在であることは明らかである。婚姻が成立するまでに吉田は威勢がよく短気なところがあるという評判をとっていた。なぜ牧野が吉田を女婿に迎えたかを知りたくなるがジョン・ダワーは彼の初期の著作『吉田茂とその時代』(1979年、邦訳1981年10月)で、「牧野としては吉田の堅固な意志力をほめ、彼が思想上から自分の意見に同調して行けると認めただけかもしれない」と述べている。そして「それよりも、何よりも牧野を信用させたのは、その財力と娘雪子に経済的安定を保障する能力だったのではなかろうか」と付け加えている。

吉田の生い立ちをめぐるこの短い解説はダワーの上記の著書によっている。同書の中公文庫版は2巻に分かれていて本文だけで735頁、引用資料、注、索引、解説などを加えると総計960頁になる。吉田の生い立ちをめぐるこの短い解説はその第1章「明治の背年紳士」の吉田の略伝からのものである。ここでは彼の修業時代を割愛したが学校も養父の家業を継ぐつもりで高等商業に2カ月籍を置いた後に正則尋常中学校を卒業し、慶應義塾、物理学校をいずれも中退している。このころようやく外交官志望の意思が固まり、華族の子弟を外交官に養成するための学習院の大学科に入学するが、大学科の閉鎖に伴い東京帝国大学法科大学に無試験で移り、1906年7月に卒業、9月に外交官および領事官試験に合格している。

吉田の伝記はもちろんここからの外交官、政治家としての経歴が中心となるが華々しい人生をたどった彼の実父や養父、またそれぞれの伴侶、さらにはまた婚家の一族との交流など興味深い材料に事欠かない。ダワーは、牧野を通じて吉田は皇室への近接性を確立し、それが彼の尊王心に個人的な側面を加えたという。「ことに1930年代以後、吉田は上層社会のみならず華族と宮廷貴族のなかに入って行った。」

吉田は10代のなかばからの脈絡を欠いた一時期を過ごした後、19歳で学習院に入学したがその時は同級生よりもかなり年長であった。その彷徨の時代に吉田が何を身につけたかは明らかでないがダワーは当時の政論家たちが政治家をきびしく批判する傍ら個人主義的実業家の勤勉は強力な国家の建設に通じるとする当時の思潮を指摘している。サミュエル・スマイルズの『自助論』がベストセラーとしてもて囃されていた。派手やかに喧伝された企業家精神と工業化、商業主義と貿易とは後の吉田を理解する上で有益である。これらは「彼の全生涯を通じ一貫して世界観を支える柱であった」。それは政治家、外交官としての吉田の性格を支えていた。


吉田茂は1967年10月20日に89歳の長寿を全うし、31日には戦後初の国葬が行われた。おそらく今日でも吉田茂は戦後の日本の再建を担った名宰相として記憶されているだろう。1954年、吉田時代が終わった当時、老いたワンマンが国民の大多数から悪しざまに言われたことは綺麗さっぱり忘れられている。第5次吉田内閣を瓦解に導いたのは進歩陣営よりもむしろ保守派内の政敵たちであった。

ダワーの見るところでは日本の政治を見る吉田の眼は戦前戦後を通じて一貫していた。明治維新から戦後まで日本の歴史は一貫していてその間に起きた西欧との戦争はその歴史の中の一つの「歴史的つまずき」にすぎなかった。彼はその「つまずき」をもたらした軍部にはそれなりに反抗したが彼の保守的な思想は一貫しており、戦後日本の急速な民主化には反対であった。

憲法改正については幣原内閣の外相として当初はGHQとの連絡に当たり、GHQとの最初の正式会合(46年2月13日)にも出席しているが、吉田は憲法改正をめぐる交渉ではこれといった発言をしているようには見えない。GHQの記録にはこの日の会合について、ホイットニー民生局長の発言に日本側出席者は度肝を抜かれ、「とりわけ吉田氏の表情にはショックと不安が明らかだった」とある。

民主化政策の根幹をなす経済力集中排除と農地改革に対しても吉田を始め旧勢力はこぞって反対した。GHQの反共主義は不動であったがその構造主義的分析では、日本の軍国主義と侵略の「根」は同時に日本の共産主義の「根」になりうると解釈された。従って「民主化」という初期の占領目的は反ファシズムであると同時に反共産主義であり、主要な分野で構造的改革が行われれば二重の脅威が一挙に解決すると考えられた。

民主化の一つの柱は経済力集中排除政策(財閥解体)である。吉田は外人記者との会見の席上、間近に迫った財閥解体政策を骨抜きにしようとして旧財閥擁護論を展開して概要次のように述べた。日本の今日までの経済機構は三井、三菱その他の旧財閥によって樹立された。国民の繁栄はこれら財閥の努力によるものが多く、これらの旧財閥を解体することが国民の利益になるとは思えない。軍閥と提携して巨利を博したのは、むしろ新興財閥である。軍閥は旧財閥が満州などの占領地で活動することを禁じて、新興財閥に特権を与えていた。終戦を最も喜んだのは彼ら旧財閥である。これに対するGHQの見解は、財閥は低賃金と市場の抑圧を生み中産階級の発展を阻み経済帝国主義と軍事侵略を招いた、その責任は個人的というより主として制度的なものである、というものである。

民主化のもう一つの柱、農地改革は最初幣原内閣の案をGHQが蹴ったのち、第一次吉田内閣になってから実施された。吉田は改革に乗り気ではなかったが、党内の反対を押し切って元革新官僚の和田博雄(後に社会党代議士)を農林大臣に任命してGHQの勧告に従った。吉田は和田に「私は保守です。だから私は気分的にはいやだ。やりたくない」と語っていた。

戦後の日本にとって最大の課題は飢餓状態にある日本の経済をまずは戦前の水準まで戻すことであった。「もはや戦後ではない」という言葉は評論家の中野好夫が「文芸春秋」(1956年2月号)に寄せた評論のタイトルを1956年7月に発表された『経済白書』が序文に借用して一挙に広まった。

吉田にとっても経済の復興は最大の課題であり、そのためにアメリカの援助を求め続けた。資源の乏しい日本は加工貿易に頼らなければならなかったが反日感情の強いアジア市場は障壁が高く、共産圏との取引には冷戦の激化に伴いアメリカが主導するCocom(1949年設立)やChincom(1952年設立、57年にCocomに統合)が立ちはだかっていた。アメリカとしても当然、この日本の要請に対処する必要があった。日本は中でも戦前最大の貿易相手国であった中国との取引を望み続けたが解決は1972年、ニクソン訪中の後まで残された。

他方において、東西冷戦の深化とともにアメリカの反共意識は上昇線をたどり、日本の占領政策にも変化が現れ始めた。朝鮮戦争(1950年6月25日~53年7月休戦)がそれを顕在化させた。日本の再軍備はポツダム政令によって設立された警察予備隊(1950年8月10日)に始まり、保安隊(1952年)、自衛隊(1954年)へと順次拡大された。

この後の日米間の主要課題、あつれきは、日本に対するアメリカ側の軍備の拡充要請(軍事予算の拡大)とそれに対する日本側の抵抗によって特徴づけられる。吉田にとって問題は再軍備そのものではなく再軍備の速度と外見とであった。日本には憲法第9条があり、軍備に多額の予算を充てるには経済が弱体にすぎた。平和を希求する国民感情にも配慮しなければならないと主張した。

ここで注目すべきことはアメリカの日本の軍備に対する要請が共産勢力に対する「極東の防衛」であるのに対して日本側の認識は一貫して「日本の再軍備」であったことで、この前提の相違が交渉における意志の疎通を妨げ双方の不満の種となっていることである。この問題に対処するアメリカ側の代表は筋金入りの反共主義者、ジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問であった。1950年6月22日ダレスは朝鮮戦争勃発の3日前に日本を訪れ吉田に会い日本の再武装を要求した。当然のごとくダレスと吉田の対話は成り立たず、マッカーサーを加えた三者会談によって道を開く必要があった。吉田はマッカーサーに直接あたることを持ち掛け、マッカーサーは旧日本政府の遊休軍事工場のリストを持ち出してそれをアメリカの軍備再建に活用してしてはどうかという妥協案を出し、ダレスは当面これを受け入れた。ダレスの究極の願望は「日本に対してわれわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるだろうか?」ということであった。

このようにして日米関係はサンフランシスコ講和会議とそれに続く日本の「従属的独立」の時代へと進む。ジョン・ダワーの『吉田茂とその時代』はこの期間を通して続けられる日米の軍事協力問題、とりわけ日本の再軍備問題についての駆け引きの描写を延々と続ける。この時期を通じて、日本は運動会の綱引きのようにゆっくりとではあるが、ずるずると軍備の拡大に向かって引きずられていく。沖縄の基地問題が一切姿をあらわさないことを別とすればその過程は今日の状況と変わるところがない。

つい先ごろ、この4月に訪米した岸田文雄首相は防衛予算(アメリカからの武器購入)の増額ばかりか在日アメリカ軍と自衛隊との指揮系統連携を強めることを約束して拍手に送られて帰ってきた。在日米軍と日本の軍隊の二つある指揮系統をどう統合するかはこれまでも議論の的であった。


豊下楢彦(元関西学院大学教授)はその著書『昭和天皇の戦後日本〈憲法・安保体制〉にいたる道』で、吉田首相や外務省レベルとは異なる「非公式チャネル」が人知れず存在しており、それが安保条約をめぐる日米交渉に重大な影響を及ぼしたことを明らかにしている。その貴重な手懸りを提供したのはフリージャーナリスト青木富貴子の『昭和天皇とワシントンを結んだ男「パケナム日記」が語る日本占領』(新潮社2011年5月刊)であった。私はこれを読んでいたので豊下氏の著書によってジグソー・パズルを完成させることができた。この「非公式チャネル」によったグループの暗躍の様相については、「昭和天皇拝謁記」という通し題のレポートの「安保国体の成立」(20年1月29日)、および「昭和天皇の行動原理」(20年3月20日)ですでに紹介してあるのでここでは立ち入らない。

京都大学教授の高坂正堯は「宰相吉田茂論」(「中央公論」1964年2月号)で、吉田が日米交渉の最大の争点である日本の再軍備問題でダレスの高圧的な要求に真っ向から対抗し、経済重視、軽武装という戦後日本の正しい枠組みを形成したと論じた。そしてこれが吉田茂の日本への遺産だと言い、それがほぼ通説として受け入れられている。これが高坂だけでなく吉田自身も主張する「戦争で負けて外交で勝った」ということの実質である。しかし、それならばサンフランシスコの講和会議は政治家としての吉田の頂点を飾る花道でなければならない。ところが事実としては、吉田はその調印式への出席を執拗に固辞していた。彼はその晴れの式典への出席者として幣原喜重郎を推し、それが叶わぬと分かると今度は佐藤尚武参議院議長を推していた。

豊下楢彦の細部に立ち入った調査によれば、吉田がしぶしぶ出席を承諾したのは天皇の「叱責」を受けたからであり、その天皇を動かしたのは、「非公式チャネル」を通してのダレス米国務長官顧問にほかならない(上掲書及び「安保条約の成立」1996年12月刊)。

高坂の所説とは異なって吉田はここへきて腰砕けになっていた。豊下は吉田の固辞の背景は講和条約に反対であったからではなく、対日講和条約(1951年9月8日調印、52年4月28日発効)と「同時に」調印され、効力も「同時に」発効する安保条約にあったという。その内容については米側から調印まで秘密厳守の要請がなされ、そのために日本側の署名者は吉田茂ただ1人であった。野党の民主党を代表した苫米地義三の全権団への参加は内容を知らされない安保条約には署名しないことを前提にしていた。

全5条の安保条約第3条は、日本における米軍の配備を規律する条件は、国会での議論が不要な、「両政府間の行政協定で決定する」としている。安保条約調印の翌年1952年2月に締結され4月28日に発効した行政協定では、ダレスが望んでやまなかった「全土基地化」と裁判権をめぐる「治外法権」が確立した。

1982年に外務省が公開した「平和条約の締結に関する調書」からは吉田の講和会議出席固辞に関する資料は全面的に削除されている。吉田の固辞に関する事実を豊下が明らかにしたのはその「調書」の原文コピーを探し出すことから始まっていた。豊下は、そこで次のように付言している。「吉田が国民には『秘密裏』の安保条約に1人で署名することに踏み切ったということは、『国民に対する責任者』としての吉田ではなく、むしろ『臣茂』として天皇に対して『責任』をとったというのがふさわしいであろう。」


ジョン・ダワーの吉田評は次のようなものであった。吉田は「緩慢な再軍備の原則を頑強に固守することによって、戦後史のうえに彼の最大の足跡を残した。」また次のようにも言う。「吉田を始め旧勢力は、戦後日本の民主主義を父権的民主主義に終らせる原因をつくった。(…)彼らは最初に自らの進歩的改革をなんら提起しなかったし、後には占領初期に成立した立法の多くを崩すことに全力をあげた。吉田自身の戦争直後の行動計画は、判定できる範囲では、ほとんど純管理技術者的なものであった。」


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