「安保国体」の成立(拝謁記6)
ジョン・ダワーが「占領の末期に締結されたこの2国間条約はアメリカが戦後世界において結んだ条約の中で最も不公正なものである」と述べる日米安全保障条約の成立には日米の思惑が錯綜して複雑な様相を呈している。その複雑さを少しでも回避するために、安保条約成立の筋書きをそこに登場する主役たちが果たした役割に即して見ることにする。
ジョン・フォスター・ダレス(対日講和問題担当):朝鮮戦争を背景として冷戦の舵をとる強い反共主義者であり日本の再軍備を支持した。最初はアメリカ対日協議会(ACJ)に拠ってマッカーサー路線の修正を図るハリー・カーン、コンプトン・パッケナムの手引きで密かに天皇側近に接近し、吉田首相の曖昧な応対ぶりに失望し、公職追放下にある鳩山一郎などとも気脈を通じた。講和と安全保障をめぐる交渉団の代表として1951年1月に来日したがスタッフ会議で「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるであろうか?これが根本的な問題である」と述べた。(これに続くダレスの弁論と昭和天皇の同意についてはすでに前回に言及した。)
51年8月に成立する安保条約では第3条で、米軍の配備を規律する「条件」が国会での議論が不要な行政協定で決定されると規定された。翌52年2月に締結された行政協定では、地域の特定が欠落した「全土基地化」と 事実上の「治外法権」が保障された。第1条で米軍の日本駐留は米国側の権利とされ、日本側の望むような日本防衛の義務を負っていなかった。
吉田茂首相:ダレスとの会談で「アムール・プロプル(amour propre)」(日本外交の自尊心)などという愛用の言葉でダレスを煙に巻き、その不信、不興を買っている。1982年に公開された外交文書「平和条約の締結に関する調書」は削除が多く公開とは名ばかりであったが、削除以前の原文コピーからこの「調書」の全体像を読むことができる。そこでは吉田が講和条約の署名のためにサンフランシスコへ出席することをかたくなに拒否したことが明らかにされている。吉田の拒否は執拗を極め、最初は代わりに主席全権として幣原喜重郎を推したが幣原が死去すると佐藤尚武参議院議長を推薦した。
吉田が翻意した契機はやはり「調書」から全面的に削除されている吉田の昭和天皇への内奏である。井口外務次官が極秘にシーボルト大使に伝えたところによれば、吉田は1951年7月19日の朝に昭和天皇に「拝謁した後に」、全権団を率いることに「同意」したという。同日の『実録』には「午前、表拝謁の間において、内閣総理大臣の拝謁を受けられる」と記されている。豊下教授は、首相兼外相として米側との交渉の総指揮をとってきた吉田が「天皇から厳しい『御詰問、お叱り』を受けた」のは当然であろうという。
それでは吉田の拒否の理由は何であったろうか。吉田はダレスに対して講和条約の「寛大にして好意ある方針」に謝意を表していた。とすれば「平和会議に自分は出たくない」という決定的な理由は安保条約以外には考えられない(豊下著196頁)。ダレスとの第一次交渉で、米軍の駐留は、日本が「希望」し米国は「恩恵」として行うという論理を日本側が受け入れて以来、米国側の論理が強引に押し付けられる結果になった(下記、昭和天皇を参照)。アメリカにとって米軍の日本駐留が「恩恵」ではなく、アメリカの国際戦略にとって「不可欠」であった事実から双方が対等の立場で交渉し得たはずであったが、当初は明記されていた日本防衛の義務規定は外され、極東条項、すなわち「極東における国際の平和と安全の維持に寄与する」との規定が突如として付加された。安保条約に署名したのは吉田茂ただ1人である。条約の全文が公表されたのは調印式のわずか2時間前にすぎず、吉田以外の全権団はその内容をまったく知らされていなかったからである。
7月19日の拝謁で、ダレスに「全面的に同意する」天皇の意向に沿って以来、吉田は変身し、対米協調路線へと舵を切り替えた。続いて講和会議への出発を控えた8月27日の内奏では「日本が米軍の駐屯を希望し、米国はこれを受諾する」というところに安保条約の『根本の趣旨』がある」と述べるに至る。(吉田首相とサンフランシスコ講和条約についてはなお末尾に[附記]がある。)
鳩山一郎:天皇側近の松平康昌はコンプトン・パケナムを通じてダレスに天皇の「口頭メッセージ」を伝えていたことは前回のレポートでふれてある。それはこれまでアメリカの当局者が実情視察のために日本を訪れながら日米両国の将来の関係について「きわめて価値ある助言と支援」を与えることができる「多くの見識ある日本人」と会うことができないでいることを指摘するものであった。鳩山は石橋湛山、野村吉三郎などと共にそのような「見識ある日本人」を代表する人物であった。鳩山は46年に組閣直前に公職追放された反吉田勢力の代表格であった。石橋は第一次吉田内閣の蔵相であったが占領体制への批判によって47年に公職を追放されていた。
パケナムが誰よりもダレスに引き合わせたかったのは鳩山である。パケナムは51年1月18日付日記の記載に始まり、以降10回近く鳩山と会談を重ねている。なかでも25日には「鳩山チーム」(鳩山、石橋、野村を指す)と午後2時から8時までの長い打ち合わせを行っている。その会合で鳩山が「2時間かけて」読み上げた声明は来るべき夕食会の席で意見書としてダレスに手交されることとなった。ここで明らかにされたことは、鳩山たちは日本が直面している脅威とは何よりも共産主義の脅威であり、それに対抗するためには講和後も米軍の駐留が不可欠であるという認識であり、「公職追放の継続によって最も経験を積み最も成熟した人材が国家の利益のためにその能力を捧げる機会が奪われていること」などである。これはまさに昭和天皇の考えと一致していた。
ここに見るように、吉田や外務省条約局の公式な外交交渉の背後で「非公式チャネル」を介した重要な交渉が展開されていた。しかもそこで交わされた議論はその後、安保条約の成立過程に重大な影響を及ぼすのである。
しかし、やがて1954年に成立した鳩山を首班とする日本民主党政権は、憲法改正や「自衛軍の整備」を唱える一方では駐留軍の逐次撤退やソ連や中国を念頭に置いた「積極的自主外交」の推進を中心的な政策課題として掲げた。前年の53年7月には朝鮮戦争の休戦協定が結ばれていた。同年の3月にはスターリンが死去し、すでに休戦への機運が動き始めていた。昭和天皇はそのような動向を歓迎するどころか逆に危機感を表明した。53年4月20日に天皇は離日するロバート・マーフィー駐日米大使と会見し「日本の一部からは、日本の領土から米軍の撤退を求める圧力が高まるであろうが、こうしたことは不幸なことであり、日本の安全保障にとって米軍が引き続き駐留することは絶対に必要なものと確信している」と述べた。
昭和天皇:ダレスは1950年6月26日の天皇の「口頭メッセージ」を「今回の旅行における最も重要な成果」と評し、さらに「宮中がマッカーサーをバイパスするところまできた」と認識していることは前回のレポートで紹介した。天皇のメッセージは豊下教授の指摘するように「マッカーサーの“頭越し”でダレスに伝達されたばかりではなく、外国からの要人と日本側関係者との面会を管理下に置いていたマッカーサーの権限を“骨抜き”にすべきことさえ提起していたのである。」これは講和や安全保障の問題を首相である吉田茂に任せておくことはできないという立場を鮮明に打ち出した」ことでもあった。
ダレスが吉田に不信を表明したように天皇も吉田への不信を表明していた。ダレスに対して天皇は、吉田ではなく「日本の国民を真に代表」する「経験豊かな人たち」によって構成される「何らかの形態の諮問会議」と事実上の交渉の場を持つことを提案した。「口頭メッセージ」はその後、これを重視した大統領顧問アベレル・ハリマンの要請によって文書化された。8月19日にダレス宛に送られた「文書メッセージ」は当然ながら「口頭メッセージ」を裏書きするものであったが占領改革と追放政策への批判がより鮮明に打ち出されていた。さらには「ダレスのイニシャティヴによって先例が作られたことに心から満足している」と記して6・22の会合を先例と位置付けている。
文書はまた結論として「仮に彼らの考え方を公に表明できる立場にいたならば、基地問題をめぐる最近の誤った論争も、日本の側からの自発的なオファによって避けることができるであろう」と述べている。この「最近の誤った論争」とは文書化作業が始められる直前(7月29日)に参議院外務委員会における質疑に対する吉田の答弁であった。吉田は「私は軍事基地は貸したくないと考えております」、「単独講和の餌に軍事基地を提供したいというようなことは、事実毛頭ございません」と平和憲法にのっとった論理を展開していた。これは「文書メッセージ」の予期する「日本側からの自発的なオファ」を否定するものでもあった。
吉田首相のこの答弁はアメリカ側にも衝撃を与え、シーボルト大使は太田一郎外務次官と会談してそれが吉田の真意であることを確かめた。そして、朝鮮戦争によって在日米軍基地が極東における米国の戦略配置上、死活的な要素であることが鮮明になり、日本のリーダーたちはそれを理解していると判断した。そうであれば日本人は日本にとって不都合な条約を拒否できる立場に立つことになる。しかし、結局日本はこのような議論を放棄した。後述するように吉田首相はダレスが主導する「非公式チャネル」によって裏をかかれたのである。
昭和天皇にとって心強い味方であったはずの鳩山一郎の新内閣もその「積極的自主外交」によって新たな安全保障上の問題を提起した。1955年6月から日ソ交渉が開始され、8月には重光葵外相が渡米して、国務長官となっていたダレスとの会談に臨むことになった。その会談に備えて重光の用意した安保条約改定案は、日本の軍備増強を前提に「日本国内に配備されたアメリカ合衆国の軍隊は、この条約の効力発生とともに、撤退を開始するものとする」と規定されていた。
このように重光訪米の眼目は米軍の撤退にあった。ところが訪米の3日前に重光は昭和天皇に内奏したが、重光の日記には「渡米の使命について縷々内奏、陛下より日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なりと釘をさされた」(『続重光葵日記』)とある。『実録』にも同趣旨の天皇の発言が記されている。これが影響したかどうかは別にして、結局重光はダレスとの会談で米軍撤退を持ち出さなかった。
1973年5月の天皇の増原恵吉防衛庁長官に対する発言は広く伝えられ大いに物議を呼んだことが記憶に残っている。「近隣諸国に比べ自衛隊がそんなに大きいとは思えない」、「国の守りは大事なので旧軍の悪いところは真似せず、いいところを取り入れてしっかりやってほしい」という発言が伝わり、天皇の「政治的行為」に当たるのではないかと問題にされたのである。「防衛二法の審議を前に勇気づけられた」とこれを記者会見で公表した増原長官はそのために辞任している。
しかし、これまでに見てきたように新憲法の実施後も内外の政治にかかわる内奏はしばしば行われており、増原事件は氷山の一角に過ぎないことは明らかである。内奏は上奏(奏上)と対をなすもので明治憲法(49条)には「両議院は各天皇に上奏することを得」と規定されており、内奏は「内密に奏上して願うこと」(日本国語大辞典)とされ、いずれも天皇大権下の政治過程であった。
ここまでに述べたように日本の安全保障問題に関する昭和天皇の干渉は多岐にわたっていた。天皇は吉田首相を信頼せず、パッケナム、松平康昌、鳩山一郎などがお膳立てをした「非公式チャネル」を通じてダレス特使(後、国務大臣)と直接交渉することを選んだ。
安保条約はどのようにして成ったかについてのこれまでのわれわれの理解はどのようなものであったろうか。現在でも広く信じられている吉田首相論を代表するのは高坂正堯(京都大教授)の「宰相吉田茂論」(『中央公論』1964年2月号)である。豊下教授の要約によれば高坂は、「吉田はダレスの再軍備要求に対して『無理だ』という立場で断固として抵抗を貫き、復興優先、経済第一主義の路線をつくりあげたと評価しダレスとの間で展開された日米交渉は『吉田茂の政治家としての頂点』に位置し、吉田自らが言うところの『戦争で負けて外交で勝った』という内実が集約されたものと位置づけている。」とすると、なぜ吉田は天皇の叱責を受けるまで、その経歴の頂点とされるサンフランシスコの講和会議への出席を固辞し続けたのであろうか。答えはすでに述べてあるように対米交渉で五分に立てるはずの切り札を捨て、ジョン・ダワーの言う、戦後アメリカが結んだ最も不公平な条約を結ばなければならなかったからである。
先に上げた「平和条約の締結に関する調書」は当時外務省条約局長であった西村熊雄がまとめたものであるが、その冒頭に「他日、閲覧・調査または研究の対象とされる方々の手引きになるように心掛けた」と記され将来全面公開されることを前提にしていた。しかし、1982年に公開された「調書」は削除が多く公開とは名ばかりで、吉田首相の「固辞」と昭和天皇への「内奏」問題は削除されていた。もしこれらの資料が原資料に忠実に公開されていたならば、それは広く流布されていた「吉田ドクトリン」の体現者としての吉田首相のイメージとは矛盾し、吉田は戦後政治の立役者は立場を失っていたはずである。
【附記】ジョン・ダワーには『吉田茂とその時代』(邦訳初刊1981年)と題する大部の著作がある。私がかなり昔に読んだこの著書を思い出したのは吉田がその弁舌の曖昧さでダレスを怒らせたというくだりを目にした時である。吉田の駐英大使時代の英側の評価がそれに似たり寄ったりだった。前任者の松平恒雄の評判が良いところをみると異なった時期に抱えた問題のせいばかりではなさそうである。
1951年9月サンフランシスコで行われた講和条約の調印式については「吉田茂を主席全権とする日本代表団は、四八ヵ国との講和条約、一国との軍事協定に調印した。軍事協定すなわちアメリカとの二国間安全保障条約は、講和条約の代償であった。(……)後に1960年に条約改定が問題になったとき、国務長官クリスチャン・ハーターが述べたように、1951―52年の安全保障条約には二つの主権国のあいだの協定としてみるとかなり極端な条項が数多くあった。」
「講和条約は二国間軍事協定と連結していたから、ソ連やその同盟国の賛成を得られず、また、中国の正統政府をめぐって見解の対立があったために中国はサンフランシスコ会議に招かれず、インドは会議参加を棄権した。こうしてサンフランシスコ講和は、共産主義国とアジア最大の人口を持つ国々を除外したアジアとの講和を意味した。これは当時の言葉では『単独講和』であった。」
ダワー氏は1988年に原著がペーパーバックになった時に寄せた序文で次のように書いている。「吉田が最も誇りとしたこと、つまり1950年に始まって結実を見た講和の達成が、(その後の日本に)結果としてもたらしたものは、深刻で長期にわたっている。それは真の自立意識の不在であり、ステーツマンシップの発揮の欠如であり、日本人のすべての階層における地球大のビジョンと責任感覚の不在というものである。そのことを否定しうる根拠は何もないと私は思う。」ダワー氏のこの揚言の実質は『吉田茂とその時代』以後の著作にも読み取ることができる。