昭和天皇の「行動原理」拝謁記(7)拝謁記感想最終編
昭和天皇の死後世に現われた天皇側近の手になる回顧録はその量、質ともにそれまでの予想をはるかに超えるものであった。今回の「拝謁記」の報道を機縁とするレポートは主として豊下楢彦教授の著書『昭和天皇の戦後日本』に従ってこれまで表立たなかった、戦後政治史の欠落を拾い上げる作業であった。その契機として今回も天皇の側近の遺した回顧録から書き起こしたのはその後に展開される論旨の唐突感を避けたい意図があった。しかし、それらの回顧録は、豊下教授にも広く援用され、控えめな記述ではあっても天皇の肉声を直接伝えるものとして貴重であることがわかる。またこの筋書きを確かなものにする上では天皇の意向を取り上げてそれをアメリカの政策に取り込ませた「「アメリカ対日協議会」を浮上させることが必要であった。
ここまでで明らかになったことは、戦後の日米関係の進展は一般的、標準的な著書に描かれたような一筋縄のものではなく、政治の一線から離れたはずの昭和天皇が陰で大きな役割を果たしていたことである。このことは前回言及した増原防衛庁長官に向けられた天皇の発言が異例のこととして驚きをもって受け止められ、またその印象がそのまま今に残っていることからも分かるように未だに知られざる歴史だといってよい。
ここで明らかにされたアメリカのロビイスト、次いではジョン・フォスター・ダレスと結んだ昭和天皇の一連の政治的行為はどのような意図に由来しているかはまた別個の問題として取り扱うべき問題かもしれない。しかし、これまで見てきたことからおよそ次のように言えるのではないだろうか。
天皇にとっては万世一系の皇統の維持こそが最大の使命であった。それを絶やすことは皇祖皇宗に対して申し開きのならない大罪である。皇統は万難を排してでも守るべきものであった。軍部の強硬な反対を押し切って、いわゆる「聖断」に踏み切ったのはすべてが壊滅し、皇統の維持が危殆に瀕したことが自覚されたからであった。そこからの天皇の行動に迷いは見られない。天皇の意を体して首相、外相、海陸省の説得に動いた木戸幸一内大臣の働きを近衛文麿と吉田茂が讃嘆したいきさつは先に近衛、木戸、『昭和天皇独白録』で詳述した。天皇が最後まで三種の神器の安泰にこだわったのもそれを子々孫々に伝える使命を果たすためであった。その天皇はまた近代戦を戦いながら賢所や伊勢神宮への戦勝祈願を怠らなかったことも注目すべきである。
天皇が共産主義を強く警戒していたこともその行動を基礎づけていた。それが天皇の吉田茂への不信とダレスへの親近を決定づけた可能性がある。共産主義への恐怖は敗戦を不可避とする近衛文麿の上奏文(昭和20年2月14日)にも盛られており、徐々に浸透するその恐怖と比べれば連合軍への降伏は次善の策と思うことができた。その恐怖は戦後も消えることなく、不安定な政局や内乱の兆しにおびえ、緊迫した朝鮮半島の動乱によってさらに研ぎ澄まされた。
1970年代ともなれば戦後も四半世紀を経ており、共産主義に対する恐怖はかなり後退したはずであるが天皇の政治的発言を貫くものは安保体制が揺らぐことへの危機感であった。1971年4月12日の侍従、卜部亮吾の日記には、統一選挙の結果について天皇から「政変があるかとご下問あり」という記述がある。前日の統一地方選挙で、東京(美濃部)、大阪(黒田)で革新知事が、横浜では革新市長(飛鳥田)が誕生していた。前年4月には京都で蜷川虎三知事が6選を果たしていた。
昭和天皇の死後、まもなく現れた『昭和天皇独白録』も天皇の肉声に数えてよいだろう。それが何のために書かれたかについてはこれを単なる回顧録であると主張する学者、研究者もいた。しかしその説は、マッカーサーの軍事秘書(military attaché)であったボナー・フェラーズ准将の手許に残された膨大な文書の中に独白録の英語版とも言うべきものが発見されるに及んで覆された。
この英語版の冒頭の序文に相当する箇所は次のような文章になっている。「1945年8月15日に、すなわち日本本土が侵攻を受ける前に、戦争を終らせる力が天皇にあったのであれば、そもそもなぜ天皇は戦争の開始をみとめたのかという疑問が生じる。この疑問を解明するには、1927年にさかのぼり、天皇自身に、天皇と軍国主義者たちの関係がどのようなものであったかを回想してもらうことが必要である。」
英語版の原文はボナー・フェラーズ文書を発見、分析した東野真『昭和天皇二つの「独白録」』(199年7月刊行)に写されている。当時はアメリカでも天皇訴追論が根強く、とりわけ真珠湾の奇襲攻撃への天皇の関与に関心が集中していた。フェラーズはこれにどう対処すべきかについて日本側の見解を求めたのである。東野によれば、攻撃はそれが実施される1か月前の11月5日の軍令部長の上奏「対米英蘭戦争帝国海軍作戦計画」を天皇が裁可することによって決定されていた。(11月5日は第7回御前会議の当日であり、後述するようにピーター・ウェッツラー氏の著書によれば、作戦計画は11月3日に内奏されたが、5日の会議での永野、杉山両総長の作戦計画の説明はハワイ作戦には触れずじまいだった。)
アメリカの国務省内では親中国派のディーン・アチソンが国務次官に就任し国務省からマッカーサーのもとに顧問として派遣されたジョージ・アチソンも親中国派という具合に国務省内では親中国派が力を得つつあった。天皇のマッカーサー元帥との第一回の会見が行われたのは1945年9月27日である。(この時、アメリカ大使公邸に天皇を玄関まで出迎えたのはフェラーズであった。)「天皇制を支持はしないが、利用する」という占領方針はマッカーサーが来日する前に決まっており、この会見は天皇にとって満足すべきものであったが、なお天皇の不安は消えなかった。その2日後に天皇は木戸にこう話している。
「これ(アメリカ側の厳しい論調)に対し頬被(かむ)りで行くと云ふも一つの行方なるが、又更に自分の真意を新聞記者を通じて明にするか或はマ元帥に話すと云ふことも考へらるるが如何」(『木戸幸一日記(下)』)
マッカーサーが天皇断罪に反対したことは良く知られているが、もしその確固とした信念がどこに胚胎したかを知る必要があれば、上記東野真氏の著書を見ればよい。ボナー・フェラーズは『昭和天皇独白録』の生みの親の一人であるだけでなく、それまでにもマッカーサー司令部にあって「私の目となり、耳となれ」と指示された信頼の厚い情報官であり、また日本人に対する心理作戦を立案し実行する任に当たった軍事秘書であった。東野氏の著書からはボナー・フェラーズの生涯にわたる日本通、親日家としての人物像が浮きあがってくる。1971年9月には昭和天皇の訪米が実現するがその年の2月、日本政府からフェラーズに勲二等瑞宝章が贈られた。表向きは日米親善への貢献が受賞の理由であるが、外務省に提出された叙勲の申請書には次のように記されていた。「ボナー・フェラーズ准将は(中略)連合国総司令部に於ける唯一の親日将校として天皇陛下を戦犯から救出した大恩人である。」
天皇の免責をめぐるもろもろの工作は世に言う東京裁判史観なるものの性格にもかかわっている。それは第二次世界大戦における日本の戦争犯罪を後世に残すものとなるが、それはしょせん勝者による敗者の裁きであって真の歴史ではないとする考えである。しかしその裁きは勝者による一方的な裁きとばかりは言い切れない。それは勝者としての占領軍司令部と敗者である非占領国上層部の間の統一された意思の上に成り立っていたからである。
東京裁判はこの統一された意思の下で軍中枢の戦争責任に焦点が合わされ、BC級の戦争裁判は別個に行われたことが特徴的である。また、国民は軍閥の犠牲者としてのみ捉えられた。これはヒットラーにすべての罪を押し付けて国民は無罪であるとした戦後ドイツの思潮と共通するものであり、戦後の政官界に旧態を残し、やがてそれが復活する余地を残した。
昭和天皇の戦争責任については側近ばかりでなく天皇自らも独白録あるいは側近との対話によって弁護の辞を連ねているが、その一方では深い失意が見え隠れしている。それは皇統を守り得て後、老境に向かうにつれて高まっている。考え足らず、あるいは考えの及ばなかった問題が心の底に沈澱していたかのようである。死の2年近く前、侍従小林忍に語った言葉はそれを如実に示している。『仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる。』
昭和天皇が晩年になって自筆で幾通りにも推敲した歌をどのような形で後世に残すかに腐心していた様子には以前にも触れたことがあった。その終戦直後に詠まれた一首とは以下のようなものであった。
身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
天皇がこの歌が広く世に伝わることを望んでいたことが明らかである。天皇はわが身を犠牲にして戦をとどめたと後世の歴史に書かれることを望んでいた。
これに対しては高野鼎氏の歌が返ってくる。
たひらぎを祈り給へるすめらぎの みことおそかりき吾におそかりき
作者は原爆で妻と4人の子を失い、天涯孤独の身となって生涯を終えた人である。
ピーター・ウェッツラー教授の昭和天皇論
現在の視点で過去をどこまで裁けるかという問題がある。考えてみればわれわれの教養は敗戦後日本の教養であるのにたいして昭和天皇のそれは一世代前、それも戦前の教養であった。日本の文献に精通した歴史学者ピーター・ウェッツラーはその著書『昭和天皇と戦争』(“Hirohito and War”)の日本語版序文で、この問題に触れて次のように言う。
「今日、多くの問題について、われわれは部分的に彼が知り得た以上の知識を得ており、当時とは異なる価値判断をもっている。その点を多くのポスト・モダンの研究者は無視しているようである。しかしながら、たとえそうであっても、天皇に責任がなかったとはいえない。彼は確実に、太平洋戦争前と戦争中の軍事的・政治的決定の多くに関与していた。それについて責任を問われなかったが、結果責任を負わされるべきである。」
ウエッツラー氏の著書は手堅い実証性において抜きん出ている。同書は天皇がどのような教育を受けたかをその師であった杉浦重剛、白鳥庫吉の意図に探り、われわれが既知のこととしてバイパスしがちな東条英機の性情、心理にもメスを入れている。
昭和天皇の摂政就任を論じた箇所で、ウエッツラー氏はこれまでに流布された昭和天皇像を見直す必要があるのではないかという。『牧野伸顕日記』には「今日でもほとんど知られていないが、皇太子に近いものの中にはヒロヒトの知的傾向を批判し、摂政に任ずることを問題視していた者がいた。」その例としてあげるのは皇太子の訪欧に供奉長として随行し、旅行中の皇太子について牧野に詳しく伝えた珍田捨巳の驚くべきコメントである。それは「御性質中御落付の足らざる事、御研究心の薄き事等は御欠点なるが如し」というもので、今後いっそうの補導を必要とするという判断を下している。
ウエッツラー氏は、珍田は英国、米国大使を歴任し、これらの国々でも尊敬された有能な外交官であったとした上で次のように指摘する。「すでにみてきたとおり、ヒロヒトは必ずしも言行が一致せず、(中略)決着をつけるべきことについて決断しなかったために、その行動はときどき矛盾していた。それが当時、問題視されていたわけではないが、珍田はそうした性格特性をいち早くみぬいていた。」ウエッツラー氏の著書は多くの研究者が謎として取り組んでいる昭和天皇の曖昧な言動をそのようなものとして捉えている。
ウエッツラー氏はまた日本語版の序文の上記の文章の後に歴史家ルチアーノ・カンフォーラの言葉を引用して言う。歴史家の仕事は、「歴史上の人物が実際にどうであったか、それ以上にどうありたいと望んでいたか、なによりも、その人自身が自分をどういう人物と想定していたか」をつきとめようとすることである。
そうとすれば昭和天皇は正にうってつけの歴史上の人物である。これまでにわれわれは主として昭和天皇の実像はどのようなものであったかを求め続けてきた。その結果として「どうありたいと望んでいたか」、「自分をどういう人物と想定していたか」にも光を当てることができた。昭和天皇は皇室の地位の安泰と継続を自らの使命と受け止めた。それは自らの出自によるものであり、杉浦、白鳥の教えに沿うことであった。その使命をはたす過程でもたらされた国家や人民の危機はわが身を犠牲にして救済した。これがその答である。
ウエッツラー氏の著書に特徴的なことの一つは、昭和天皇の脳中は常に皇統を守るという一念に支配されていたことを指摘して止まないことである。開戦に同意したのは皇統を守るためであったとまでいう。「軍事計画の勝算が不確かなまま、(クーデターによる)権力喪失という目前の脅威に対処することにし、開戦決断に精力的には反対しなかった。」
戦後に至って、「天皇は知らなかった」という報道が広く信じられた。読書界は戦後いち早く現れた『情報天皇に達せず』という書物の題名に強く印象づけられた。ウエッツラー氏の著書は、天皇は内奏、上奏をむしろ自ら進んで求めて意見を述べ、政局の推移に精通していたことを明らかにしている。「要するに、ヒロヒトは軍事指導者との非公式ながら重要な会合を利用して軍事作戦計画を話し合ったり、修正したりしていた。陸軍と海軍の記録の示すところでは、政治的軍事的決断ならびに決断への関与責任は総意(コンセンサス)の問題であった。」天皇は御前会議の場では一語も発しないのを常としたがそれまでにすべて事が定まっていたのである。
問題の真珠湾への奇襲攻撃を天皇が知っていたかどうかは未だに曖昧な状態に置かれている。天皇自身は作戦計画を事後的に知らされた、あるいは(キーナン検事によれば)計画は知っていたが真珠湾が目標とは知らされていなかったと述べたという。
「パールハーバー攻撃の概要は、陸軍と海軍の参謀総長から天皇の側近(侍従武官長)に、最高機密として1941年(昭和16年)11月8日に送られ」現在は陸軍の機密文書(上奏関係綴)に含まれている。「機密を守るために、杉山はそれについてメモを残さなかった。天皇もまたこの作戦計画を木戸に告げなかった。」
邦文の歴史文書としては、防衛研修所戦史室に在籍した原四郎元中佐の大著『大東亜戦争開戦経緯』全5巻は、最終的にパールハーバーの米艦隊攻撃へといたるまでの数々の決定とその背後にあった人物についての詳細にしてかつ包括的な記録であるという。(完)