P大島昌二:警世の書「人新世の『資本論』」(その2)2023.3.4  Home

警世の書「人新世の『資本論』」 (その2)

 

 『人新世の「資本論」』を読んで目からウロコが落ちたような気がした。一気に読んで大筋がつかめたような気がした。ところが忘れないうちに理論的な側面をまとめておくつもりで作業を始めたがなかなか前へ進めない。山頂は見えているのだが足元の岩が険しいとでも言うべきか、論旨は明快なのだが筋道が手強いのである。本書ほど索引が必要な本はあまりないのではないか。結果として、再読した上で自分の言葉というよりは著者自身の言葉に密着した文章に終始してなんとか要領を書き上げたのであった。

「資本論」そのものについての無知も告白しなければならない。ソ連邦の崩壊が「歴史の終り」を告げるものであり「資本論」の学習や研究を無用なものとする風潮が広まった。もちろん歴史が終るわけはない。象牙の塔は依然そびえ立ち「資本論」の研究は、少なくともわれわれが終着点と思っていた地点で足踏みをしてはいなかった。『人新世の「資本論」』はそれらの研究が到達したレベルのさらに上の次元を指し示すもののようである。人類の生存環境を確保するために経済の持続可能性を第一義に掲げ、あえて成長を追わない「脱成長コミュニズム」から後退する道がありうるだろうか。

 

日々新聞を読み、テレビを見ていれば人類の歴史がただならぬ局面に到達していることは誰の眼にも明らかだろう。だからと言ってすべての人が力を合わせて困難を乗り越えるために一致協力することは期待できない。気候変動、異常気象に関してはその原因についてこれまでにも膨大な研究が積み重ねられてきた。しかし学者を含めてそれを強力に否定する者にも事欠かなかった。これまでに経済的な強大国は弱小国の犠牲の上に発展を続けてきた。強大国は、発展・成長によって増大する環境負荷、つまり修復不可能な「物質代謝の亀裂」を弱小国の問題に転嫁することによって足許の亀裂の修復を図ってきたのだった。 

先に引用した共産主義哲学者スラヴォイ・ジジェックの言うように、資本主義は自らのシステムの崩壊を避けるためにあらゆる手段を尽くしてきた。「1970年代に利潤率が低下した際に、資本主義は極めて深刻な危機に直面したがゆえに、さまざまな規制を必死に撤廃させ、税率を下げさせたのではないか。」資本主義はルールを変えながら延命を図ってきたのであった。投資の世界に職を得てきたわが身としてはここで痛切に思い当たることがある。

戦後日本の証券制度は、1948年に制定された証券取引法(証取法)にもとづくものでアメリカの証券制度に則るもので銀行を証券業から明確に分離した。また証券会社は証券市場での証券売買の仲介業務に徹することとなり自己の勘定で投資することを禁じられた。(戦前の証券会社は行き過ぎた自己売買によって景気の変動に翻弄され倒産の憂き目を見ることが珍しくなかった。)これによって証券会社は免許制の下で証券市場を独占し、独立の産業として拡大路線を歩むことができた。

この証取法の元となったのは1929年以降の、アメリカの大恐慌時代にニューディール政策の一環として導入された「1933年銀行法(グラス・スティーガル法、35年に改定)」と「1934年証券取引法」である。日本の証券界はこのアメリカ発祥の制度に守られて繁栄を謳歌したのであった。ところがその本家本元の雲行きが怪しくなってきた。日本の証券界が金科玉条としてきたアメリカのグラス・スティーガル法が骨抜きにされ、金融サービスと商品先物取引に関する2つの「近代化法」(FSMA-1999年、およびCSMA-2000年)にとって代わられたのである。FSMAは銀行と証券の間の障壁を取り払い、CFMAは政府機関による金融派生商品への規制を一律に禁止してその後の巨大な金融恐慌を盛り上げる力になった。

ジジェックは1970年代の資本主義の危機と規制撤廃に注目しているが、規制撤廃の動きはレーガン大統領(1981~89)の時代に華々しい成果を上げ始めたが、2つの近代化法を成立させたのはクリントン大統領(1993~2001)であった。その後のサブプライム・ローンを多用した2008年の金融恐慌の後、オバマ大統領は2009年6月に金融市場の新しい規制法を提案するにあたってCFMAを細部にわたって厳しく批判している。

70年代の危機は経済学の潮流にも反映された。マネタリストや自由市場主義が破格の取り扱いを受けるようになった転機は1974年のフリードリッヒ・フォン・ハイエクのノーベル経済学賞の受賞で彼の旧著「隷属への道」(1944年)はベストセラーに返り咲いた。ミルトン・フリードマンがノーベル賞を受賞したのはその2年後で「その極端な形のマネタリズム」にアカデミズムの箔がつけられた。

ジャワハルラル・ネルー大学教授のジャヤティ・ゴーシュ教授は「(数人の著名な経済学者の名を挙げて)スエーデンの王立学士院は彼らの偉大な業績を無視しただけでなく、次第に小粒で時にはまったく疑わしい業績を表彰するようになった」と述べている。それまでにノーベル経済学賞の受賞者は62人、うち50人以上は受賞時にアメリカに居住しており、シカゴ大学からは最多の11人が受賞している。反面では世界人口の4分の3の経済的現実である開発途上国の問題を扱った受賞者はわずか3人に過ぎない。(ガーディアン紙09年10月8日)

シカゴ大学でも教壇に立った宇沢弘文東大教授は1980年代後半に始まった日本の金融バブルの遠因は71年8月のニクソン・ショックに際して為替市場を開け続けた大蔵省の頑迷、不可解な政策にあると指摘していた。それが70億ドルを超えるドル売りを招き、過剰流動性を生み、「日本の多くの金融機関はそれまで営々として守ってきた金融的節度を失わざるを得なくなった」のである。(私は翌72年、東証の株価が倍増したことの驚きが忘れられない。バブルの80年代でも最大の年でも50%の上昇であった。)ニクソン・ショックとは国際収支危機に直面したアメリカが国際市場にその危機の「転嫁」を図ったものと見てよいだろう。転嫁は一度だけでは終わらなかった。その次に襲った第二波が1985年9月の「プラザ合意」である。

スラヴォイ・ジジェックはハーパーズ・マガジン(09年9月号)への寄稿文の冒頭で「2008年の金融メルトダウンで真に驚くべきことはただ一つ、それが予測不可能であったという説がいとも容易に受け入れられたことである」と述べている。「予測不可能」とはFRB議長として絶大の信頼を得て人気を博したアラン・グリーンスパンが見出した逃げ口上であるがそのグリーンスパン自身がすでに90年代の半ばに株式市場の過熱に対して“irrational exuberance”(根拠なき熱狂) という言葉を用いていた。彼はその後も活況を続ける株式市場を見て変節したのである。

ニューヨーク・タイムズのコラムニストでもあったポール・クルーグマン教授は「なぜエコノミストは大間違いをしたのか」と題するコラム(09年9月6日)でシカゴ学派の思い込みと思い上がりを紹介していた。グリーンスパンの長年の功績を祝う会議で出席者の1人(ラグラム・ラジャン教授)が「金融市場が背負い込んでいるリスクは危険をはらんだ水準に達している」と警告を発して満場の嘲笑を浴びている。2005年のことである。ユージン・ファーマ教授(効率的市場仮説の父とされる)は「バブルなどという言葉は聞き捨てならない」と述べた後、住宅市場がなぜ信頼に値する市場であるかを力説した。2007年のことである。

金融問題の理論家たちは彼らの構築したモデルが正しいと信じ続けたし、実務家たちも同様であった。その代表格が彼らのグゥルー(導師)と呼ばれたグリーンスパンでサブプライム市場の急拡大、あるいは住宅市場のバブルの抑制を求める声に耳を貸さなかった。彼が現実に目覚めたのはようやく08年10月になってからでその印象を「(自分を支えていた)知の殿堂のすべてが瓦解した」と告白している。これは多かれ少なかれそれまで肩で風を切っていたシカゴ学派のすべての人に共通するものであった。総帥とも言うべきミルトン・フリードマンは2006年11月に亡くなっていた。

1980年の大統領選に勝利したロナルド・レーガンは演説の中で「ゴールドウォーター氏が孤高の歩みを続けることがなかったら、われわれはこの祝賀の席につけただろうか?」と述べた。ゴールドウォーターとは極右のデマゴーグとして世論を沸かせ、大統領選で大敗し、やがて政治的な影響力を失った人物である。そのゴールドウォーターは1974年4月の日記に「私が(大統領選で)主張した原則のことごとくが今では政治世界の福音になっている」と書くことができた。

クリントンは大統領としてレーガンがなしえなかった多くのことを成し遂げた。福祉の解体、ウォール・ストリートの規制の解除、自由貿易の拡張である。経済的不平等はさらに広まった。ゴールドウォーターはクリントン大統領について次のように書いている。「彼は民主党員だが私は敬服している。彼は立派な仕事をしている。」(Kim Philipps-Fein, “Invisible Hands-The Business men‘s Crusade against the New Deal” )資本主義の下にある限り民主党も共和党もつまりは同じ穴のムジナで、その救済のためには同じようにして事に当たることがここに示されている。

 

斎藤幸平氏の次著「ゼロからの『資本論』」にはマルクスが、資本とは金でも物でもなく価値を増殖するための絶えざる「運動」であると定義していることを示している。「見えざる手」は自由な市場のもたらす調和を指す言葉として使われるがそれはまた調和とは無縁の資本の運動にも使うことができるだろう。その運動はここに示されたように党派を問わずに作動し、推し進められる。

前回立ち入って触れずにおいてしまった第6章には、資本が「富」(wealth)であるところのコモンズを解体して「財」(riches)に転化して、本源的蓄積を推し進める過程が説かれている。富とは人々の欲求を満たす「使用価値」であるのに対して、財は貨幣によって計られる「交換価値」であり、市場経済においてのみ存在する。ここに使用価値と交換価値の矛盾、対立が生れる。マルクスはエンクロージャーなどによるコモンズの解体によって商品の人工的希少性が創造されることをもって資本主義の「本源的蓄積」(独 Ursprűngliche Akkumulation)と捉える。コモンズが本源的蓄積によって私有に帰すれば使用価値は変わらないが希少性は増大する。希少性の増大は商品としての価値、すなわち交換価値の増大につながる。資本の絶えることのない運動とは希少性を維持、増大させることであり、それによって資本は利潤を上げていくのである。

資本主義の発達は利潤を増大させ経済の規模を拡大した。「豊かさをもたらすのは資本主義かコミュニズムか?」と問われれば、資本主義と即答する人が多いに違いない。しかし現在の社会に浸透している「豊かさの中の貧困」に目を向ける必要がある。先にも見たように富の偏在は著しい。繰り返して言えば、世界人口の約半分が世界の富豪の上位わずか26人の資産を分かち持っているに過ぎない。日本では結婚をしても子供を持たない世帯が増えているがその理由として上げられるのは貧困である。子供を育てて満足の行く教育を与えるだけの余裕がない、高騰した住宅のローンの返済にも苦しみ続けなければならない。利用した奨学金の返済も負担になっているかもしれない。職場には何としてもしがみついていなければならない。一歩誤れば家を失いホームレスとなってねぐらを探さねばならない。このような現象は日本だけではなく平均賃金が日本と並ぶまでになった韓国でも同様で合計特殊出生率が日本(1.43%)よりもはるかに低いわずか0.78%まで低下したと報じられている。

この「豊かさの中の貧困」の謎を解くためには「希少性の創造」を理解しなければならない。コモンズを失った人々は商品世界に投げ出され、そこで貨幣の必要性に迫られることになった。しかし世の中に商品は溢れていても貨幣は希少である。その貨幣を手にして飢餓を免れるために労働者は劣悪な条件の下で働かざるを得ない。長時間労働による過酷な勤務は「過労死」という現象を生むまでになっている。このように資本は「人工的希少性」を生み出しながら運動を続ける。それは「価値と使用価値の対立」が続くことであり、GDPで図られる経済成長をしたところでその恩恵が広く国民に行き渡ることはない。むしろ人々の生活の質や満足度は下がるだけである。これこそが正にわれわれが日々経験している現実なのである。「豊かさの中の貧困」とは「資本主義の生む貧困」に外ならないと言ってよいだろう。

私には「人工的な希少性」を手掛かりにすることによって初めて解けた疑問が幾つかある。戦後、日本が貧困のどん底にあった時、アメリカの物質文明は日本人の憧れの的であった。そんなアメリカに貧困があるとは信じられなかった。日本では衣食住のすべてが乏しかったが中でも食糧不足が抜きんでていた。広大な領土に恵まれたアメリカに貧困があるとしても少なくとも食糧は余剰であり、日本はその放出を受けて飢えをしのいだこともあった。そんなアメリカに真の貧困があるはずはないという疑問は長い間解けることがなかった。

日本の歴史を振り返ってもよい。維新開国の時代にそれまでご法度であった西洋の文化が一挙に押し寄せてきた。「和魂洋才」といえば聞こえは良いが当時の青年を襲った思想的混乱は戦後期のわれわれの混乱をはるかに上回るものであったろう。そのことを思いやって「苦しかった明治期の青年たち」という言葉を用いた思想家がいた。その言葉を私は戦後生まれの青年たちに紹介したことがあった。ところが彼らの反応は半ば冗談としても「昭和の青年たちも苦しいですよぉ」というものであった。彼らは一流と言われる大学を卒業して一流の企業で働いている青年たちだった。この言葉は額面通りに受け取ってよかったのだろう。戦後も30年ほどを経て豊かな経済を謳歌し始めた時代の青年たちは本来の豊かさからほど遠いところにいたのだった。

「受験地獄」というものもある。私は1970年代に子供たちを外国で育てながら帰国してからの彼らの教育が気がかりだった。しかし豊かになるであろう日本の教育環境は10年もすれば一変するものと期待することができた。ところが事実は逆で10年後の日本の受験競争はむしろ一層厳しいものになっていた。このように資本が使用価値を貶めて商品の希少性を生み出し、物質代謝に「修復不可能な亀裂」を増大させるダイナミックスは時を追うにつれて更に激しいものになっていった。放置すればこれは今後も続くのであろう。

 

『人新世の「資本論」』の第7章は「脱成長コミュニズムが世界を救う」と題して、袋小路からの脱出の道筋が考察され、続く第8章「気候正義という『梃子』」では現下の萌芽的な運動の数々が紹介されている。しかしこの2つの内容はむしろ『ゼロからの「資本論」』の、その副題にもなっている最終章「コミュニズムが不可能だなんて誰が言った?」がより広範で明快にカバーしているように思われる。

「マルクスが構想した将来社会は、コモンを基礎とした“豊かな”社会です。(…)ワークシェア、相互扶助、贈与によって脱商品化された〈コモン〉の領域を増やしていくことで誰しもに必要なものが十分にゆきわたるだけの潤沢さを作り出すのです。」

 このようなマルクス解釈を突飛だと考える人は20世紀社会主義のイメージに囚われている。当時このように考えていた人はマルクスだけではなかった。「同時代のパリ・コミューン(1871年3月26日~5月28日)に影響を受けた社会主義者たちも、消費主義ではない、将来社会の富の潤沢さを強調しています。」「ロシア革命以前、パリ・コミューンを経験した19世紀末の社会主義者たちにとっては、むしろ、私たちが思いえがくようなソ連や中国の『社会主義』よりもこうして、『協同的な富』の豊かさを実現するアソシエーション型社会の方がよりリアルなものでした。」そうしたなかで、世界では〈コモン〉の領域を広げていこうとする動きが市民を中心として広がり、国際的な連帯を生み出しています。

著者はジョゼフ・デジャックに従って、マルクスの思想を「アナキスト・コミュニズム」と名付けたいという。アナキズムは無政府主義と訳されて無政府であることのみが強調されているが、暴力や強制にもとづかない、平等で自主的、協調的な協同体にもとづいた社会を標榜するものである。著者が例示するスペインのバルセロナやオランダのアムステルダムのような都市の意欲的な企て、さらに進んでそれらを結ぶ協業の試みは「コモンズの領域の拡張」というマルクスの目ざした将来社会に沿うものと言ってよいだろう。(04/03/23)

 

 

 

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