P大島昌二:警世の書「人新世の『資本論』」斎藤幸平著2023.2.19   Home

警世の書 「人新世の『資本論』」 斎藤幸平

 

著者は、ベルリン・フンボルト大学哲学博士、Karl Marx‘s Ecosocialism (邦訳『大洪水の前に』) によって2018年度のドイッチャー記念賞を日本人で初、また歴代最年少で受賞した。同書はまた世界七カ国で翻訳刊行されている。ドイッチャー賞とは、ペレス・トロイカ以前の秘密に閉ざされたクレムリン内の政治動向の分析報道の第一人者であり、広く読まれたスターリン、トロツキーなどの伝記を残したアイザック・ドイッチャーとその妻タマラの名を冠した英語で発表されたマルクス主義についての「最高でもっとも革新的な著作」に与えられる賞で1969年、ドイッチャー夫妻の没後2年に英国で創設された。著者はまた日本でも日本学術振興会賞を受賞している。

 

本書は気候変動を頂点とする現在人類が追い込まれている危機的状況は資本主義の本質によってもたらされたものであり、資本主義の枠内ではその問題を解決できず、その解決策としてカール・マルクス(1818~1883)が構想した『(未完の)資本論』の説く「脱成長」を世界的な社会経済政策として前面に押し出すものである。

 この議論を説得的に進めるためには、当然のことながら著者が「グリーン・ニューディール」あるいは「緑のケインズ主義」と名付ける多くの専門家による多岐にわたる対処策を検討し論破しなければならない。そのカギとなる問題は経済の成長は二酸化炭素の排出量を増加させて気候変動を不可避的なものとするという認識である。つまり経済成長は環境負荷を増大させる。これに対してはこのように連動して増大するものを新しい技術によって切り離すという「デカップリング(decoupling)」の構想がある。しかし経済成長が順調であればあるほど経済活動の規模が増し二酸化炭素の排出量も増えてしまう。そのためにさらに劇的な効率化を図らねばならない。これが「経済成長の罠」である。

この罠を逃れる可能性は、これまでの経験からもわかるように、まずないと考えねばならない。加えて資本主義にはもう一つ「生産性の罠」がある。資本主義では競争下にある企業はコスト・カットのために生産性を上げる必要に迫られている。生産性が上がれば、社会の雇用を守るためにも、絶えず生産を増やして経済規模を拡大しなければならない。これが「生産性の罠」である。つまり依然として資源消費量が増大する「経済成長の罠」から抜け出すことはできない。

 

著者は本書の最初の部分を数多の識者、専門家たちが提案する対策がいずれも問題の解決にとって無効であるばかりか場合によっては逆効果であることの論証にあてている。従ってこの著者の立場は社会主義に反対する者ばかりでなく、これまでの前途楽観的な『資本論』理解に固執する社会主義者にとっても容易に受け入れがたいものであった。従って、日本の一般読者向けに書かれた本でありながら本書の内容を理解するにはかなり高度の理解力を必要とすることになる。

当然のことながら、著者はこの困難を十分に承知している。読者は著者が拠って立っているところは世に知られている『資本論』三巻(1894年)あるいは『共産党宣言』(1847年)ではなく『(未完の)資本論』であることを知らねばならない。現在、著者を含む世界各国からの研究者が参加するMEGA(メガ)と呼ばれる国際的「マルクス・エンゲルス全集」プロジェクトが進行中で最終的には100巻を超える大全集になると予想されている。マルクスとエンゲルスの残したすべての草稿を網羅したこの大全集は『資本論』の草稿ばかりでなく、マルクスの書いた新聞記事、手紙など新資料を含む膨大なものである。著者の見るところではその中でもとりわけ注目すべき新資料はマルクスの「研究ノート」である。それによって一般のイメージとはまったく異なった資本論解釈が生れる。

『資本論』の第一巻は1867年9月に刊行されたがそれに続く原稿は未完のまま残された。第二巻は第8稿まであり苦闘のほどが偲ばれるが第三巻は脱漏の多い初稿のみであった。このように『資本論』の第二巻、第三巻はマルクスの生前には出版されておらず、1883年のマルクスの死後盟友エンゲルスが遺稿を編集して1985年6月と1894年12月に出版された。

 

『資本論』第一巻においてマルクスは同時代の化学者ユストゥス・フォン・リービッヒの「略奪農業」批判に学んだ「物質代謝論」を展開していた。光合成、食物連鎖、土壌養分の連鎖などのような自然の連鎖過程をマルクスは「自然的物質代謝」と呼んだ。この過程には人間も参加しているが人間に特徴的な「労働」がこの過程に働きかけ、それが一定の水準を超えるとエコロジカルな過程の「自然的物質代謝」を変容させていく。例としてリービッヒの略奪農業論を見ると、作物の連作は土壌の養分還元に亀裂を生み土地を疲弊させる。そこで化学肥料を使用すれば土地の生産力は回復したように見えるが亀裂は修復されたのではなく転嫁されただけにすぎない。なぜなら化学肥料の生産は大量の二酸化炭素を発生させるからである。このような技術的転嫁は連鎖を起し、濫用によって矛盾を深めるばかりである。そこでマルクスは、資本主義は物質代謝に「修復不可能な亀裂」を生み出すと警告している。  

著者は、マルクスの「研究ノート」を精読することによって『資本論』第一巻刊行以降、1883年に亡くなるまでの約15年間、マルクスはほとんど著作を公にしなかったが、熱心に自然科学の研究を続けていたのだという。そして「マルクスの資本主義批判は続く二巻を完成させようとする苦闘の中でさらに深まっていった。いや、それどころか、飛躍的な大転換を遂げていったのである」と続ける。

 『資本論』第一巻の刊行後のエコロジー研究の中でマルクスが集中的に読んだのはドイツの農学者カール・フラースであった。フラースの『時間における気候と植物世界、両者の歴史』はメソポタミア、エジプト、ギリシャなどの古代文明の崩壊を描いている。同書によれば、これらの文明の崩壊に共通した原因は過剰な森林の伐採のせいで、地域の気候が変化し、土着の農業が困難になってしまったことである。フラースは伐採や輸送の技術がさらに進むことでこれまで以上に森林の奥深くに人間の手が入り込むことの危険性を危惧していた。マルクスはこの本を絶賛しその警告の中に「社会主義的傾向」があることを見出していた。 

 『資本論』刊行以降のマルクスが着目したのは、生産力の上昇が自然の支配を可能にし、資本主義を乗り越えることを可能にするという楽観的な見通しではなく、資本主義と自然環境との関係性であった。「資本主義は技術革新によって、『物質代謝の亀裂』をいろいろな方法によって外部に転嫁しながら時間稼ぎをする。ところがまさにその転嫁によって、資本は『修復不可能な亀裂』を世界規模で深めていく。過度の成長は環境的限界を超えて(注)最終的には資本主義も存続できなくなる。」『資本論』第一巻刊行後のマルクスはこの転嫁の過程を具体的に検討しようとしていたのである。

(注)環境学者ヨハン・ロックストロームと彼の研究チームは2009年に経済成長による環境負荷のもたらす不可逆的な限界を想定し、これを「プラネタリー・バウンダリー(地球の限界)」と呼んだ。そこで選ばれて閾値を与えられた9つの領域は、気候変動、生物多様性の損失、窒素・リン循環、土地利用の変化、海洋酸性化、淡水消費量の増大、オゾン層の破壊、大気エアロゾルの負荷、化学物質による汚染である。

 

トマ・ピケティがその著『21世紀の資本』によって資本主義の下では貧富の格差は縮まらないことを統計的に証明して一躍世界の経済学界のスターに躍り出たのは2014年のことであった。富の驚くべき偏在については各種の統計で広く伝えられているがオックスファム(国際的NGO)の世界の富豪トップ26人の資産総額が世界人口の約半分38億人の資産に相当するというのはストンと胸に落ちる。これはもちろん南北の格差を反映しているがアメリカだけを見ても超富裕層トップ50人の富は下位50%の資産に匹敵する。

著者は気候変動に直面した人類が取りうる4つの未来の選択肢をあげており、これをコロナ禍に即して検討している。四つの選択肢とは①秩序を脅かす環境弱者や難民を取り締まって特権階級の利害を守る(気候ファシズム)、②「万人の万人に対する闘争」を放置し叛乱、混乱状態に任せる(野蛮状態)、③国家の強権によって、トップダウンの平等主義的な対策を進める(気候毛沢東主義)、そして④「脱成長コミュニズム」である。

①はコロナ禍を無視したアメリカのトランプ大統領や森林破壊につき進んだブラジルのボルソナロ大統領である。③はロックダウンを強行した中国の習近平首相である。このいずれもがそのまま突き進められていたならば②の野蛮状態に落ち込んでいたであろう。従って選択肢は②と④、つまり「野蛮状態」か「脱成長コミュニズム」かという二者択一の問題になる。本書の最後の段階において著者はこの「脱成長コミュニズム」の説明に専念する。

しかしここでその前に、2つの論点を整理しておく必要がある。1つは自由市場信仰を非難し「進歩的資本主義」を説く経済学者ジョセフ・スティグリッツなどの「脱成長資本主義」である。スティグリッツは労働者の賃上げや富裕層、大企業への課税、さらには独占の禁止の強化の必要を説く。だが、法律や政策の変更だけで、資本主義を飼いならせるだろうか。著者は国際的に名をはせるスロヴェニアの哲学者、スラヴォイ・ジジェックの次のような言葉を引いて応酬する。

「そもそも法人税の増税や社会保障費の拡充が可能であれば、とうの昔に行われているのではないか。1970年代に利潤率が低下した際に、資本主義は極めて深刻な危機に直面したがゆえに、さまざまな規制を必死に撤廃させ、税率を下げさせたのではないか。そうであればこれから、かつての水準かそれ以上のレベルまで規制を強化したら、資本主義は崩壊してしまうのではないか。それを資本主義が受け入れるはずがない。また必死に抵抗を繰り返すだろう。」

もう一つは若き日の『共産党宣言』から晩年の『ゴータ綱領批判』と本書で詳述されている「ザスーリチ宛の書簡」に至るまでの三時期に分かれるマルクスの思想の変化である。それはまた、従来広く受け入れられてきたマルクス理解の変換を要請するものである。ここに示された著者のマルクス解釈は先にも述べたMEGAプロジェクトの中から生まれている。

 

マルクスが目指していたもの                    経済成長    持続可能性

1840年代~50年代: 生産力至上主義 (『共産党宣言』、『インド評論』)         〇     X

1860年代: エコ社会主義 (『資本論』第一巻)                〇     〇

1870年代~80年代:脱成長コミュニズム(『ゴータ綱領批判』、「ザスーリチ宛書簡」)  X     〇  

 

 ここで著者はマルクスが晩年に目指していた「脱成長コミュニズム」に到達する。「脱成長の資本主義」については先に引用したスラヴォイ・ジジェックの批判が有効である。成長と資本主義は切り離すことができない。資本とは終りのない価値増殖運動である。それをやめろというのは資本主義をやめろというのに等しい。ジジェックによればスティグリッツは不可能を可能と信じる空想主義者である。

日本ではソ連崩壊の結果マルクス主義は明らかに停滞している。左派であってもマルクスを表立って擁護し、その知恵を使おうとする人は極めて少ない。マルクス主義といえば一党独裁や生産手段の国有化という時代遅れなイメージが強い。ところが世界では資本主義の矛盾が深まるにつれて「資本主義以外の選択肢は存在しない」という常識にひびが入り始めている。2018年のギャラップの世論調査ではアメリカではより多くの若者たちが社会主義を資本主義よりも好ましい体制と見なすようになっている。民主党の大統領候補予備選でのバーニー・サンダースの躍進を裏書きするものと見てよいだろう。

 

年齢別のアメリカ人の見解    資本主義に肯定的         社会主義に肯定的

18~29歳              45%          51% 

30~49歳              58           41

50~64歳               60           30 

65歳以上                60           28

 

人間の技術進歩が自然に及ぼす変化に警鐘を発していたフラースは、崩壊の道をたどらずに存続した古代ゲルマン民族のマルク協同体が持続可能な農業を営んでいたことを高く評価していた。マルクスはそこでフラースが依拠したドイツの法制史学者ゲオルク・ルートヴィッヒ・フォン・マウラ―のマルク協同体の研究も丁寧に読んでいる。マウラ―によれば、マルク協同体は全員が等しく放牧が出来るように共有地を用意していただけでなく、誰がどの土地を使うかについても籤引きを導入して定期的に公平な入れ替えを行っていた。それによって占有を排除し、富の偏在が生じることのないような配慮がなされていたのである。共同体の内部にはこのように強い社会的規制がかかっており、土地ばかりでなく生産物も外部と売買できなかった。当然のことながら資本主義的な商品生産の論理が入り込む余地はない。マウラ―が歴史の中に見出し、そこからマルクスが学んだことはゲルマン民族の徹底した平等主義であった。権力関係が発生し、支配・従属関係へと転化することはこのようにして防がれた。

 

「マルク協同体は、経済成長をしない協同体社会の安定性が、持続可能で、平等な人間と自然の物質代謝を組織していた」とするマルクスの認識は決定的な重要性を持っている。1850年代初頭のマルクスは生産力至上主義とヨーロッパ中心主義に凝り固まっていた。ところが晩年のマルクスは共同体社会の定常性こそが資本の力を打ち破ってコミュニズムを打ち立てることを可能にすると主張しているのである。晩年のエコロジー研究と共同体研究はここでしっかりと結びついている。

マルクスがヨーロッパ中心主義を捨てていたという指摘はオリエンタリズム的観点からも歓迎されていた。しかし労働者が高い生産力と技術によって豊かな生活を築くという生産力至上主義という負の遺産はいつまでも重くのしかかった。マルクス主義は、生産力の上昇が破壊的なものだという事実を受け入れられず、「脱成長」を敵とみなしていたのである。

著者自身もドイッチャー賞の対象になった自らの著書『大洪水の前に』で環境主義者としてのマルクスを論じながら、やはり持続的経済成長を追究する「エコ社会主義」をマルクスの思想としてその先へは進んでいなかった。本書で著者は、マルクスの晩年の境地を見定めて、「脱成長コミュニズム」というこれまで誰も提唱したことのない新しい概念を生み出している。それによって将来社会を構想したいと考えるのである。

すでに気候変動のリスクは極めて深刻で干ばつや水不足、森林火災、海水温の上昇などが世界を襲っている。これらが及ぼすインパクトの現れ方は一律ではなく地域によって程度の差があり、資本主義がすぐにも崩壊することはないだろう。しかし資本主義が崩壊する以前にプラネタリー・バウンダリーが決壊し、地球が人類の住めない場所になっている可能性は大いにある。気候変動の防止が人類の目的であるならば、エコ社会主義の成長を放棄し、経済成長を抑えることによって目的の達成に専念すべきである。眼前にせまった破局につながる成長ではなく、経済のスローダウンとスケール・ダウンを図るべきである。

第6章「欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」では豊かさとは何かが考察され、第7章「脱コミュニズムが世界を救う」では現下の萌芽的な運動を拾い上げながらその実現に至る過程が展望される。著者が資本主義に対置するのは「コモン」(または、「コモンズ」)の思想である。コモンは、あらゆるものを商品化するアメリカ型自由主義とソ連型国有化の双方に対峙する第三の道を切り開くものである。それは社会的公共財を、専門家に任せるのではなく、市民が民主的、水平的に共同管理することを重視する。そして最終的にはこの「コモン」の領域を拡張していくことによって資本主義の超克を目指すのである。