新吉原近辺図
吉原内の大見世(展示模型)
「江戸の園芸熱」
「大吉原展」
「SHUNGA(春画)」
読書遍歴(その17)「大吉原展」と江戸の文化
気候が外出に適してきたこともあり、久しぶりで美術展を見てきました。見に行きたいと思っていた「大吉原展」(東京芸大美術館)の終りが近づいて来たのに気づいて5月17日、天候を確かめて上野へと遠征しました。花見はとうに終っていても上野は中々の賑わいでした。
版画は近寄らなければよく見えないし説明の文字も小さいので版画展は苦手で遠ざかっていますが記憶をたどるとコロナ以前、つまり直近に見た展覧会の一つは「タバコと塩の博物館」の「江戸の園芸熱 浮世絵に見る庶民の草花愛」であった。2019年2月のことで私はそこからスカイツリーを横目に見て言問橋を渡り墨田公園から浅草寺へと散策した。「タバコと塩の博物館」では「江戸の園芸熱」の前にも「航路アジアへ!鎖国前夜の東西交流」(1998年10月~11月)を観ている。それはスカイツリーが現出する以前のことである。
日本の園芸植物に向けられた西洋人による関心は、エンゲルベルト・ケンペル(1651~1706)に始まると言ってよい。日本ではより有名な後年のフォン・シーボルト(1796~1866)、はケンペルが滞在していた頃、日本の実証的植物学は同時代のヨーロッパのものより高いレベルに達していた」と記している。ケンペルが引用している儒学者の中村愓斎(てきさい)の編んだ『訓蒙図彙』は全20巻のあらゆるものを網羅するもので植物誌というよりは百科事典に近かった。ケンペルが滞在していた頃の日本にはほかにも植物について書かれた本は幾つかあったが、いずれも「植物誌」と呼べるものではなかった。植物を包括的に分類する体系はなかった。
ケンペルが日本のために果たした偉大な役割は日本に関するヨーロッパの知識を飛躍的に高めたことである。彼はアジアに関する最初の著作『廻国奇観』(1712年)を著しその第6章「『日本誌』史」は英語版(”The History of Japan”)が1727年に、またその後、半世紀を経てドイツ語版が出版された。これらの本は版を重ね、およそ2世紀の長きにわたりヨーロッパ人の日本観を形作るよすがとなった。1853年浦賀に来航したペリーもこの『日本誌』を携えていた。
僅か2年2カ月の短い日本滞在中にケンペルの手足となって働いたのが(ケンペルがその名を明かしていない)今村源右衛門英生(1671~1736)であることが分かっている。ケンペルは出島で厳重な監視の下にあり、当時の日本人は日本に関するいかなる情報も外国人に漏らしてはならなかった。ケンペルは日本滞在の期間を通じて日本人との間に、とりわけ医学を習得しまた助手として仕えるために送り込まれた若い通詞、今村英生との間に特別な信頼関係を築いて仕事を進めたのであった。
今村は後にイタリア人シドッチと新井白石の会話(『西洋紀聞』、『采覧異言』に結実)を通訳するために短時間でラテン語を学んだがそれはケンペルによるオランダ語文法教授の基礎があったからであろうと推測されている。ケンペルについての以上の概略は『遥かなる目的地 ケンペルと徳川日本の出会い』(ベアトリス・M・ボダルト-ベイリー編、大阪大学出版会)および『ケンペルと徳川綱吉』(同ボルダト-ベイリー著、中公新書)に拠っている。ケンペルは日本では悪評の高い五代将軍綱吉を名君として描いている。
「江戸の園芸熱」は江戸庶民の園芸趣味を浮世絵を通して鑑賞するという独特の視点に立った展示であった。江戸庶民の園芸熱は樹木、鉢植、草花、盆栽、テーマパーク(花屋敷)など多岐にわたっていた。浮世絵という庶民芸術がそれに豊かな彩りを添えていて私は「錦絵」という言葉を実感することができた。後に浮世絵の人気は低落したが、花々、樹木は生き延びており盆栽は日本独特の園芸美術としてとりわけ近年、世界に好事家を増やし続けている。
浮世絵展は先にも述べたように視力への負担が大きいので喜んで見に行くことは少なかった。太田美術館は開館を知って見に行った記憶がある。だが履物を脱いで畳に上がることには抵抗が大きかった。東京ステーション・ギャラリーで広重の東海道五十三次を見たことがあったがゆっくりと落ち着いてみる気にはなれなかった。
今回の「大吉原展」は久しぶりでもあり、最初から勉強するつもりだったから音声ガイドを借り、2,3度長椅子に腰を下ろして休みながら、解説も目を凝らして読んで2時間あまりつぶさに見学した。何しろ「吉原」は、登楼はもちろんその地に足を踏み入れたこともない。小説では樋口一葉の『たけくらべ』で大門(おおもん)と見返りの柳を知ったがそれ以上のことはなかった。永井荷風もある程度読んだがそれで吉原がわかるわけもない。山東京伝を読むべきであることは今回の展示で教わったが時間がありそうにはない。文字で読んだだけの知識を少しだけ確かなものにすることができただけである。渓斎栄泉の「江戸百景 吉原夜の雨」で大門と見返りの柳の位置関係を知ることができた。歌麿と並ぶ人気を博したという鳥文斎栄之の名を知り大英博物館所蔵のその一連の作品を見ることができた。
家康が江戸に幕府を開くと、大規模な江戸市街整備のため各藩から大量の労働者が派遣された。江戸の人口は一挙に膨れ上がり、京都、大阪から一旗揚げようという身軽な商人や野心家が集まった。国元に妻子を残してきた大名の家臣も多く江戸の人口は極端な男社会であったという。すでに慶長の頃から京都、駿河府中などの遊郭が柳町(京橋あたりとされる)、麹町、鎌倉河岸に自然発生的に軒を並べていた。やがて庄司甚右衛門を代表とする遊女屋が江戸に公認の傾城町を設置するように願い出て葭や葦の生い茂った湿地帯を整地してできた二丁四方の土地を与えられた。この現在の人形町2丁目付近とされる地域に江戸町、同二丁目、京町の三町が作られ、追って京町二丁目、角町などができた。
一口に吉原というが吉原は、振袖火事として知られる明暦の大火(1657年1月)を境として当初の元吉原から浅草の北側の日本堤に再建された新吉原(同年8月)へと移転している。吉原が抱えていた遊女の数は当然年ごとの変動があるが1721年(享保6年)1月の人口調査では総人数8,171人のうち遊女2,105人を数えている。
庶民の生活圏とは切り離された吉原は、田中優子法政大学名誉教授によれば、この世に作り出された「別世」であった。全国から遊女が集まることによって吉原には人工言語である「遊郭言葉」が作られた。「吉原は他の遊郭に比べて、徹底して演出された演劇空間だったのである。」
花魁(おいらん)や花魁道中が何であるか(廓内の近距離なのになぜ道中というか)、吉野太夫に由縁するという太夫という呼称は格の高い遊女に与えられるがそのほかにどんな呼称があるか。時代による変遷はあるが1873年(明治6年)の「芸娼妓解放令」まででも256年におよぶ歴史の中で、遊女には太夫以下に格子、散茶、局女郎、端、などのランクがある。吉原芸者という言葉がある。遊女と芸者はどう違うかも知っておきたい。
「別世」を創り出す吉原は、また高度に洗練された文化も発信し続けていた。「大吉原展」のカタログには以下のような記述がある。遊興やイベントには音曲、芸能は欠かせないものとして重視された。吉原に女芸者が現れたのは1762年(宝暦12年)とされる。岡場所(官許の吉原以外の私娼街)にいる芸者とは一線を画し2人一組で仕事をし、色は売らなかった。
吉原の遊女たちの髪型や着物は江戸市中の女性たちにとって最先端のファッションであり、浮世絵版画の普及がこれに拍車をかけた。花魁たちの教養も吉原の格式には不可欠であった。「琴、三味線、花、香、書、画などの嗜みに加えて、和歌、漢籍、狂歌といった文芸にも才能を発揮する花魁たちは、文化人と互角に渡り合えた」。遊女も元はと言えば芸能者であった。しかし遊女への評価が人柄の暖かさや教養の高さなど芸能以外に集り、芸能は別の人々に委ねられたのである。
「文化人たちは、サロンとして吉原という場を利用し、それを洒落本や黄表紙といった文芸や浮世絵などを通じて一般大衆へ知らせる役割を担った」。浮世絵はこのような浮世の壮大な賛美であった。しかし、これらの華やかさの主役たちは、事情のない限り大門から外へ出ることを許されぬ「籠の鳥」であった。鳥居清長の「三囲(みめぐり)の神詣」がそれを描いている。この絵にも見える三囲神社は吉原から目視されるほどの距離にあるが遊女たちにとっては別世界であった。5人禿(かむろ)と3人の振袖新造(花魁の世話をする見習い)を引き連れた花魁は小袖を着て帯を後ろに結ぶ町家の風俗で外出をしている。概して無表情な顔ばかりに見える浮世絵でもこの年端の行かぬ禿たちの表情はさすがにはしゃいで見える。
遊女の外出は遣手(やりて)の監視付ではあったが、馴染み客に連れられた芝居見物もあった。「傾城のくっきり目立つ桟敷なり」という川柳があるが相撲の桟敷などに今でもそれらしき風情の和服姿を見ることがある。
浮世絵展のカタログでめぼしいものは他に4点手許にある。「The Floating World(浮世絵展)」(ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館、1973年9月~11月);「大英博物館所蔵 浮世絵名作展」(上野の森美術館、1985年3~4月);「SHUNGA 春画展」(永青文庫 2015年9月19日~12月23日):「初期浮世絵展 版の力・筆の力」(千葉市美術館、2016年1~2月)である。
「The Floating World(浮世絵展)」は大英博物館所蔵の浮世絵コレクションを大規模、かつ長期間にわたって展示した画期的なものであった。私にとっても広重、北斎の世界を一挙に押し広げてくれた画期をなす展示であった。多くはないが春信や歌麿の男女交合の図も見せていた。
「大英博物館所蔵 浮世絵名作展」(上野の森美術館、1985年3~4月)はその後10年余を経た後であるがこれに続くものであった。本場日本での展観ということの意気ごみも感じられたが展示作品の選択には一定の配慮もあった。大英博物館のコレクションにはエンゲルベルト・ケンペルの所蔵品と思われるものがあるが同博物館が浮世絵の本格的な蒐集を始めるのはようやく1902年になってからである。日本の開国初期の駐日公使で『一外交官の見た明治維新』(1921年刊。日本では禁書として扱われた後1960年刊)の著者として著名なアーネスト・サトウの写楽を含む貴重な23点の蒐集品、アーサー・モリソン(東洋の貴重な文献の宝庫、文京区駒込の東洋文庫は彼のコレクションである)が集めた1,000点余の浮世絵を始めとしてコレクションが積み上げられていった。
このカタログには日本浮世絵学会会長の楢崎宗重氏が浮世絵の魅力を簡潔な美文調で綴っている。浮世絵の開山という菱川師宣を紹介した後に、「醜陋の美・写楽」、「北斎・万有造形」、「広重・天地有情」の小節を立てて三大絵師を解説している。
「SHUNGA 春画展」は「日本美術の性と快楽(Sex and pleasure in Japanese art )が副題であり2013年10月~14年1月に大英博物館で展示公開されたものの巡回展という触れ込みであった。しかし英国での展覧に合わせて作成されたカタログには400枚以上のカラー写真が掲載されているのに対して日本での展示点数は133点、大英博物館の所蔵作品は67点というから厳密に言えば、似て非なるものであった。これには理由がある。春画を公衆の眼にさらすことの妥当性について議論が沸騰し、適当な展示館が手を上げぬまま私的で小規模の永青文庫美術館に落ち着いたのらであった。日程を前後2回に分けて作品を入れ替えて展示するなどの工夫が凝らされたが2度見に行ったところでどれだけ本来の展示に近づけたかは疑わしい。会場では大英博物館の大部のカタログを見かけた。
最後の「初期浮世絵展 版の力・筆の力」は千葉市美術館で開かれた。同美術館は菱川師宣が千葉県出身という縁のせいか、浮世絵の豊富なコレクションを所蔵するが世界各地からの出品も豊富で、初期にさかのぼる浮世絵の歴史を学ぶことができた。浮世絵には木版画と肉筆画があり、ここでは「版の力・筆の力」として明示してある。これを木版画について見ると、用途に従って、一枚絵の版画、挿絵、絵本、画譜、摺物、チラシなどがある。
1873年(明治6年)には「芸娼妓解放令」が施行され、1888年(明治21年)には学問の府である本郷に隣接する根津遊郭は、元禄年間に埋め立てられ「深川洲崎十万坪」と呼ばれた景勝の地、洲崎(現江東区東陽一丁目)に移転された。このため、1958年(昭和33年)の売春禁止法に至るまで、洲崎は吉原と並ぶ都内の代表的な遊郭街であった。
よそ目にはいかに華やかに見えようとも、遊女たちは暗い運命を背負った「籠の鳥」であった。彼女たちばかりでなく日本の女性すべての平等と解放のための闘いはその後も幾多の困難に遭遇しながら延々と続けられた。永畑道子氏に明治、大正、昭和のそれぞれについての「女性生活史」三部作、『野の女』(1980年7月)、『炎の女』(1981年10月)、『乱の女』(1992年1月)がある。