(せんじゅじゅく)
「ちゃんと歩ける日光街道 奥州街道;山の渓谷社」によると、「千住宿は飯盛り旅籠が軒を連ね「愛想よき千住女郎衆袖ひかれわらじとくとく泊る旅人」と詠われ、水戸街道や下妻道の分岐を控え大いに賑わった」とある。
千住宿の一部。
HP 歴史探訪と温泉 によると
「○掃部宿プチテラス 足立区千住仲町7-8
2015(平成27)年4月19日、「掃部宿憩いのプチテラス」がオープンしました。 足立区が自転車屋の跡地にミニ公園を設置したもの。プチテラスの中には、千住宿、掃部宿の歴史を説明した案内板が建てられています。
掃部宿(かもんしゅく)とは仲町、河原町、橋戸町一帯の呼び名で、千住宿の一部でした。掃部という名前は、江戸時代初期、千住大橋架橋や掃部堤(かもんつづみ)築堤等に尽力した「石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)」から名付けられました。
(説明板)
千住掃部宿
千住町が日光道中初の宿場と定められたのは寛永二年(一六ニ五)将軍徳川家光のときです。水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、日光・東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でもあります。 現在の千住一丁目から五丁目までが最初の千住宿の地にあたります。その後、千住大橋を越えた小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまで編入され、四キロメートル余りの街並みが続く千住宿となりました。
掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、 万治元年(一六五八)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されました。
名前の由来は慶長三年(一五九八)村を拓き、元和二年(一六一六)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤(いしでかもんのすけよしたね)にちなみます。
掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり繁栄した町です。豊かさを基に江戸時代から続いた俳譜文化、江戸絵画、漢学・医学など良質な文化遺産を産み出したことでも知られています。明治時代になると千住中組となり、昭和六年(一九三一)に千住仲町となりました。江戸時代から明治・大正・昭和と、千住仲町の商店街は千住仲町實業会と称し、足立区随一の繁華街でした。
昭和二十年四月十三日の夜間空襲の際、千住仲町の日光道中沿いの商家は焼夷弾で被災し、一夜にして一軒も残らず焼失してしまいました。その後、戦後の復興を遂げ、現在に至ります。
平成二十七年三月
千住仲町まちづくり協議会 うるおいのあるまちづくり部会」
とある。
所在地;東京都千住3-33
状況;残っていない
案内板;標柱あり
指定;足立区登録記念物(史跡)〈昭和59年11月14日登録〉
秋葉市郎兵衛が代々勤めていた。
足立区HPによると「千住宿本陣、市郎兵衛の屋敷跡地は、旧道三丁目の南西側角地にあります。そこにこの標柱が立っています。
宿泊施設には、本陣・脇本陣・平旅小屋(ひらはたごや)・食売旅籠屋(めしうりはたごや)等の区別がありました。それぞれ格式が異なり、宿泊客にも相違がみられ、中でも本陣は最も格式が高く、主に一万石以上の大名・公卿・高僧等、身分の高い人が宿泊していました。
千住宿の本陣は、初期は二軒ありました。享保19年(1734)の宿内伝馬図によると、三丁目市郎兵衛と四丁目嘉左衛門に本陣の肩書があります。しかし、四丁目分はいつしか消滅し、今日記録に残っているのは、市郎兵衛一軒だけです。
市郎兵衛の屋敷の規模は、間口9間半(約17m)、奥行38間(約69m)、361坪の広さで、屋敷内に建坪120坪、玄関付門構えの建物でした。
市郎兵衛は、千住・草加・越谷・粕壁(春日部)・杉戸の五宿本陣の総代を勤めたといわれています」とある。
脇本陣は1件あったという。
照光院 が仮本陣を勤めた、との記述がネットにはあるがこちらは未調査。千住には照光院は無いようだし。
「江戸時代の千住(現在の東京都足立区周辺)は、日光街道・奥州街道の最初の宿場町として栄え、幕府の直轄地(天領)として重要な拠点でした。千住周辺には、幕府の統治機構である代官所や関連施設が置かれていました。
1. 千住周辺の代官支配
関八州代官(伊奈氏): 江戸時代初期より、関東の代官頭である伊奈忠次(ただつぐ)が千住大橋を架橋し、周辺の治水や開発を行いました。
小菅県(こすげけん): 幕末の1868年(明治元年)に旧幕府の代官・桑山効が武蔵知県事に任命され、1869年に小菅県が設置されました。現在の足立区周辺は、この小菅県の管轄下にありました。
2.千住・周辺の関連施設
貫目改所(かんめあらためしょ): 千住宿の問屋場の隣にあり、街道を通る貨物の重量(貫目)を検査する施設でした。現在の東京芸術センター前(千住1-4)付近にありました。
小菅御殿(こすげごてん): 現在の葛飾区西小菅小学校周辺にあった、将軍が鷹狩りの際に休息・宿泊した場所です。伊奈氏の陣屋(代官所)としても機能しました。
3. 千住の歴史的背景
南千住と北千住の差: 隅田川を境に、南千住は江戸町奉行の支配地(江戸の端)、北千住は関八州代官支配の農村(宿場町)という法律的・行政的な違いがありました。
名所: 千住大橋、江戸口木戸、問屋場、高札場などがあり、交通の要所として非常に賑わっていました。
現在、千住エリアには「千住宿問屋場及び貫目改所跡」の碑が立っており、当時の面影を伝えるスポットとなっています」
足立区HP
史蹟高札場
南 千住高札場跡碑 足立区千住仲町18
千住一里塚跡碑の西側に「千住高札場跡」碑があります。1989(平成元)年の建立です。
■足立区登録有形文化財(歴史資料)〈昭和59年11月14日登録〉
■郷土博物館(大谷田5-20-1)・TEL03-3620-9393
■通常は公開していません
江戸時代には、いろいろの禁制を一般に布達する方法として、高札の制度がありました。各役所からの達しを、名主宅の門前や村内の十字路等の高札場に掲げて、庶民に周知徹底を図ったのです。
この千住宿高札は、明治維新の動乱に際して、人身の安定を促すための布告で「慶応四年五月大総督府参謀」の署名があります。横1.8m、縦0.6mあります。
表書きに「覚」として「徳川慶喜(よしのぶ)が恭順の意を表したので家名相続を許し、一般の人にも、その所を得させようとの思召(おぼしめ)しである。しかし心得違いの者共が官軍に反抗し掠奪兇暴(りゃくだつきょうぼう)の働きをしているので、やむを得ず誅伐(ちゅうばつ)する。皆、安心して仕事に励むように。」といった趣旨が書かれています。
裏書きに「この書は明治維新のみぎり、西郷隆盛と勝海舟の両公が会見し江戸城開城の約束が成るに及んで勝公の揮毫(きごう:筆をふるって字や絵を書くこと)したものである。」と記されています。千住宿に立てられた最後の高札です。
足立区 HPより
北 千住ほんちょう公園 足立区千住4-22-16
<千住宿高札場由来>
ここは、千住宿の北の高札場跡です。(参考 南の高札場跡)
「千住宿 高札場 由来
私たちの街 千住が宿場となって栄えたのは 慶長二年(一五九七)人馬引継駅として以来のことだといわれています
江戸時代の足立は 千住宿を中心に始まった といっても過言ではありません
特に寛永二年(一六ニ五)東照宮建立によって日光道中初宿として また江戸四宿の一つとして繁栄し 約四百年を経て 今日に至っております
このような高札場は 明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して 人々に周知してもらうため 千住宿の入口・出口の所に設置されていました
これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいとおもいます
昭和六十三年十一月吉日
千住の街並み景観を考える会
公益信託あだちまちづくりトラスト助成事業
足立区役所公園課
(財)足立区まちづくり公社」
奥のほそみち矢立の地ということもあり、松尾芭蕉関連の案内が多い。
「1689年3月27日(旧暦)、深川から船で千住(足立区・荒川区周辺)に到着し、奥の細道の旅へ出発しました。千住大橋のたもとで多くの門人に見送られ、「行春や鳥啼魚の目は泪」の句(矢立初めの句)を詠んだ 。
矢立初めの碑(足立区・千住大橋公園): 芭蕉が千住で最初に句を詠んだ地。
松尾芭蕉像(荒川区・南千住駅前):
2015年に建立されたブロンズ像。
句碑: 安養院(千住5丁目)や千住神社、素盞雄神社(南千住)などに残されています。 」
足立区 HP