現在状況;残っていない
北緯 40.52.31
東経 141.05.48
AL 11m
馬門小学校前バス停
国道4号線は山側を通り、海沿いのこの道(旧国道)の交通量はさほど多くない。写真は馬門小学校前のバス停。
「野辺地戦争戦死者の墓所」から馬門の間に一里塚があったようだが痕跡はない。藩境塚までは海沿いの砂浜をを歩いていたようだ。現在は護岸されており、砂浜は殆ど残っていない。
ところが「大日本東山道陸奥州駅図;青森県立図書館蔵」には藩境塚から野辺地の間に一里塚は描かれていない。距離的にはあってしかるべきだが目印も無く断定は出来ない。藩境塚と前後の御番所は詳しく記入されているので、一里の距離に塚があれば記入されているはずなのだが・・・。
野辺地は盛岡藩最北の湊、そして津軽藩からの防衛の役割を担う重要な町だった。また下北へ向かう際にも拠点となり非常に栄えていた。市内には現在で言えば灯台だが、「常夜灯」が残っており野辺地のシンボルとなっている。
今では北海道に行くとなると青森市まで行きフェリーか青函トンネル経由だが、江戸時代には南部の人々などは陸路で大間まで行き、約20kmを船で渡ることも多く下北の湊は栄えていた。
また戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟側の盛岡藩と、新政府側の弘前藩がこの地で戦っている。これは盛岡藩が降伏した後の戦いで、不要のものだったともいわれている。
ここには盛岡藩の番所があったが、役人を常駐させ、貢租を免除した。御番所の設置年は不明。家中が手形を所持しない場合は家名を書留に記して通し、江戸から津軽への下りは町奉行の報告で通した。六十六部や勧進者は行き先を尋ね、脇道には入れず一泊を条件として許した。野辺地の人が他領にでるときには町宿老の手形で許し、領民が馬門温泉へ湯治にゆく際には野辺地代官の手形を要した。女性が他領の温泉にゆく際も同様。今は住宅の一角に柱標がある。