【写真】芭蕉の辻 北を望む[2408]
ばしょうのつじ
宮城県仙台市青葉区
柱標あり
[2409 作成]
【写真】日本銀行仙台支店 東を望む[2408]
伊達藩の街道の起点は当初芭蕉の辻だったが、後に北目町に変更されている。そのため、文献により塚の位置が違っていたりもする。
いつ変更されたかは調査が必要。
【写真】芭蕉の辻 仙台城方向を望む[2408]
【写真】芭蕉の辻から南を望む[2408]
【写真】芭蕉の辻 南を望む[2408]
現在は東北を代表する歓楽街である国分町南の芭蕉の辻と呼ばれているところが仙台藩の起点。仙台城に至る道と奥州道中の交差点である。この「芭蕉の辻」、松尾芭蕉をイメージするが意外にも無関係だという。この辻に芭蕉を植えている家があり、そこにすんでいる虚無僧が「芭蕉」と呼ばれたことからこの名が付いたという。
そこには「芭蕉の辻」と記された碑と「北 津軽三厩迄45次 百七里二十二丁 奥道中」「南 江戸日本橋迄 六十九次 九十三里 奥州街道」と書かれた道標がある。仙台開府時には起点とされたこの場所も程なくして北目町に変更されている。仙台城への交差点を起点としたものの、奥州道中の塚とのずれが不便だったのだろう。どちらにせよ仙台城下では塚は無く杭で表示されたようである。
【写真】国分町 [2408]
【写真】国分町 [2408]
【写真】国分町 [2408]
【写真】国分町 [2408]
【写真】国分町(定禅寺通り側) [2408]
【写真】国分町定禅寺通り交差点 [2408]
【写真】定禅寺通 光のページェント[2412]
芭蕉の辻には説明板や柱標が設置されているが、その向かいは日本銀行仙台支店。さらに奥はサンモール一番町が通っており、藤崎が見える。
一方、北に向かうと広瀬通りと交差し国分町に入る。東北一の歓楽街だけあってにぎやかだ。この区間、もちろん基本的には飲み屋しかない。
さらに北上し、定禅寺通りを過ぎると現在はメイン通りから一本入った裏通りといった趣。といって古い建物が残っている訳でもない。青葉神社通りといわれているようだ。
なお、12月には定禅寺通りでけやき並木のイルミネーション「光のページェント」が行われる。以前は青葉通りでも行われていたが、現在は定禅寺通りのみ。こちらも資金難で規模を縮小している。
青葉神社通りを北上すると青葉神社に突き当たり東に直角に曲がる。いわゆる寺町で現在は風致地区に指定されている。東昌寺、支倉常長の墓がある光明寺が所在する。
【写真】杜の都信用金庫本店営業部 [2408]
【写真】青葉神社通 [2408]
【写真】青葉神社通 [2408]
【写真】フォーラム仙台 [2408]
【写真】青葉神社通 [2408]
【写真】青葉神社通 [2408]
【写真】青葉神社通 [2408]
【写真】青葉神社通 [2408]
【写真】青葉神社通 [2408]
【写真】東昌寺 [2408]
【写真】鹿島神社 [2408]
【写真】北仙台駅付近 [2408]
【写真】仙台駄菓子 熊谷屋[2412]
江戸時代から仙台で作られている素朴なお菓子で、農林水産省の「にっぽん伝統食図鑑」にも紹介されている。
種類の多さが特徴で、50~60種類はあるという。また、手作りのため職人(店)による味の違いもあるという。
穀物を主原料に黒糖や水飴で甘みを付けている。江戸時代には白砂糖は贅沢品として庶民の摂取が禁じられていたためである。米どころであるため余った米を大いに利用していた。
元々駄菓子だけあって子供のおやつだったが、茶の湯文化の浸透に伴いお茶請けとして大人も食するようになった。
ただ、一般的なだけにそれ程有名ではなく、「仙台駄菓子」として名産品の地位を得るのは1950年頃からだという。
1885年創業の石橋屋二代目店主石橋幸作が駄菓子研究に尽力し、「仙台駄菓子」の名も認知されるようになった。
この石橋屋は閉店してしまったが、その研究資料は仙台市歴史民俗資料館に寄贈され、2024年には特別展も開かれている。
仙台駄菓子を扱う店舗は他にもいくつかあり、通な仙台土産として購入する人も多いそうだ。なお、写真の熊谷屋は元禄八年(1695年)創業で300年以上の歴史を持つ。