渋民宿から沼宮内宿まで
渋民から北上し、新塚一里塚、草桁一里塚を過ぎ川口を通る。 川口にはかつて城があり、現在も川口神楽が有名。川口の集落の北には明円寺があり、寛永二一(1644)年の梵鐘が残っている。ここから北上し、川口館跡を過ぎ丹藤川に至るルートが奥州道中だった。この付近、平地だがさほど広くは無く、山に囲まれる感じ。冬はかなり寒い。
川口氏が中世から近世にかけ南部氏家臣としてこの地の川口館に居住。寛文五(1665)年八戸南部氏に従い八戸へ移っている。
川口を過ぎると、JRの線路付近を北上し沼宮内宿に入る。
沼宮内宿
街道筋は現在の町並みとほぼ一致する。沼宮内小学校付近にかつて代官所が置かれていた。また、沼宮内稲荷神社から山手に登ると沼宮内城に至る。ここは九戸政実の乱の際平館城主の一戸政直に攻められたり、秀吉軍の5万3千人の軍勢が駐屯し、浅野長政、蒲生氏郷らの軍議が行われたりしたという。
川口神楽
岩手町を代表する神楽組で、明治期にその芸風を激しいものに改良して現在に至っていると言われる。
南方の部族の踊りのような囃子に乗り、癖のある動きの鳥舞を輪踊りする。
幾つか演目があるが、きつね踊りの原型と思われる踊りもある。子供も主体となって踊る。
「みちのく宿駅」河北新報社 によると、沼宮内には代官所と検断が置かれていた。また、牛の産地岩泉から牛を追って葛巻で一泊、沼宮内に至って更に一泊という「南部牛追い」の拠点としても名が知られていたという。その際、「牛馬宿」という小屋に牛は繋がれたというが、現在その痕跡は残っていない。
沼宮内には御蔵奉行も置かれ、納米を管理、収納していた。盛岡藩の蔵は三棟あったという。
更に大火が多く、寛永六(1629)年には町内の殆どを焼失。明治にも二百戸前後の火災が三度記録されている。故に、宿場を偲ばせるものは殆ど残っていない。