■水沢宿から金ヶ崎宿まで
水沢を出て北上すると平坦な地域を進む。東には北上川が流れている。途中、胆沢城跡を過ぎると鎮守府八幡宮が見えてくる。更に北上すると三代清水に到達。胆沢川を渡るが川留めの際に宿泊する施設もあった。川を渡ると標高が上がってくるが間もなく金ヶ崎宿である。距離にしておよそ2里である。
■金ヶ崎宿
■城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区
金ヶ崎宿内は「城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。秋田県の角館と同様だが、角館ほど整備されてはいない。それでも下記のニュースのように少しずつ整備が進んでいる。
「金ケ崎町西根の国選定・城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区(伝建群)内にある旧坂本家侍住宅復元工事の一般公開は3日、伝建群内の現地で行われ、町内外から35人が参加した。創建当時の喰(く)い違い4間取り、茅葺(かやぶ)き寄棟造屋根などが再現される。伝建群に江戸時代を漂わせる侍住宅がまた一つよみがえる。
町から同侍住宅の管理、調査委託を受けた金ケ崎まちづくり研究会(高杉郁也代表)が主催。8月から着工し、現在は半解体をして骨組みだけの状態で建物調査をしている。来年3月完成、4月公開に向けて復元内容などが説明された。
復元される主屋は延べ床面積142平方メートル。現在は「田」の字型の整形4間取りになっているが、復元後は玄関口の1間だけが狭くなる喰い違い4間取りとなる。客人を待たせる部屋として使われたと言われている。鉄板葺きの屋根も、金ケ崎町産の「南部茅」を使ったかやぶきに変わる。
旧坂本家侍住宅は、生け垣、庭、主屋、付属屋などで構成される約1848平方メートルの屋敷。仙台藩主伊達氏の預かり足軽から大町氏の家臣となり、1830(天保元)年に屋敷を拝領し、主屋を建てている。
町が実施する復元工事は日本宝くじ協会助成金を活用し、事業費は約4800万円。現在は旧大沼家侍住宅、伊東家侍住宅、大松沢家侍屋敷が公開されている。
高杉代表(42)は「伝建群内の南側に見学ポイントが集中していたので、北側の諏訪小路地区にある旧坂本家侍住宅の復元によって、伝建群の良さを伝える場が広がる」と復元を喜ぶ。以前住んでいた東京都在住の坂本達(とおる)さん(66)は「歴史的遺産として活用されることはうれしい」と完成を楽しみにしていた」。
[岩手日報WebNews091004]
■胆沢城
胆沢城(いさわじょう)は、坂上田村麻呂が延暦二一(802)年に胆沢(奥州市水沢区)に造営させた城柵。後三年の役まで約150年鎮守府として機能したとされる。
胆沢城造営の翌年には岩手県盛岡市に大規模の志波城が造営された。これには更に北への遠征拠点とする意図が認められるが、たびたびの水害のせいで812年(弘仁3年)頃に小規模な徳丹城(岩手県紫波郡矢巾町)に移転している。そのため相対的に既存の胆沢城の重要度が上がっている。また、この頃には鎮守府が国府多賀城から胆沢城に移転している。
胆沢城は、高さ約3.9m、一辺675mの築地(ついじ)塀とその内と外に掘られた幅3m~5m 、深さ1m~1.5mの溝で方形に囲まれていた。全体の面積はおよそ46万㎡(東京ドーム9つ入る大きさ)あり、その内部は中央南寄りに一辺90m四方の塀で区画された政庁域(せいちょういき)、そのわきに官衙(かんが)や厨(くりや)などが広がっていた。
胆沢城は現在道路が貫通している。かつての街道も同じ道筋といわれるが、胆沢城を迂回し、JR線路近くを通過していた可能性も指摘されている。江戸時代から「方八丁」と呼ばれ何らかの遺跡があったということは認識されていたようである。
1922年(大正11年)10月に内務省告示270号で国の史跡に指定された。
昭和に入って発掘により胆沢城として証明されている。
■奥州市埋蔵文化財調査センター
胆沢城に隣接する奥州市埋蔵文化財調査センターは『古代東北蝦夷の世界』をテーマとしたビデオの上映や胆沢城跡から出土した遺物の展示、アテルイを紹介するコーナーが設けられている。