■平泉から前沢宿まで
平泉から北上し、衣川を渡り徳沢一里塚のある山を越えると前沢宿に至る。下衣川村の瀬原町に11間ほどの小宿がある。
■葛西・大崎一揆(葛西領)
三本木一里塚の所で葛西・大崎一揆(大崎領)について触れているが、この一揆は葛西氏の家臣であった旧胆沢郡主柏山明宗が旧領前沢城を天正十八年十月十六日に襲撃したことが発端となっている。
葛西氏は鎌倉時代にこの地に土着し、奥州惣奉行として葛西七郡(伊沢、磐井、江刺、気仙、桃生、登米、本吉)を支配下に置いていた。穀倉地帯であり豊かな地域で半独立の国人領主が多かった。
天正十五年には豊臣秀吉が関東、奥州の諸大名に対し、惣無事令を発令し秀吉の承認を得ない戦を禁じている。既に天下統一が固まりつつあったのである。
その秀吉の発した小田原参陣に参加しなかったからには理由がある筈である。
元々石巻本拠の「石巻系葛西氏」と登米郡本拠の「寺池系葛西氏」とに分裂しており戦国時代初期にかけて大崎氏との抗争と伊達氏の血筋の受け入れと介入で混乱が始まっていた。
実際この頃葛西領は天正元年の九戸政実の侵略、二年には本吉郡志津川城主本吉重継と中館城主熊谷直平の反乱。九年には胆沢城主柏山家の相続争い、十年には九戸政実が再び河崎城を攻めている。十五年には浜田城主浜田広綱と志津川城主本吉大膳の戦、十六年東山城主大原飛騨守と藤沢城主岩渕近江守の合戦などがあり全く安定していなかった。
晴信は小田原参陣を行おうとするが、気仙郡広田の大和田宮内少輔の反乱の報が入り参戦が出来なかった。
これがために改易されたのだが、当然不満が残る。蒲生氏郷が戻ると同時に反乱が起きたのである。
それにしても九戸政実は「乱」なのにこちらは「一揆」で扱いが違う。葛西・大崎氏は既に取り潰しだったためだろうか。
[0910加筆]