写真;国道280号線。北を望む。
現在状況;残っていない
北緯 40.54.11
東経 140.40.24
AL 12m
奥内小学校近くが距離的に一里塚の所在地となるが現存しない。国道と海の間は家が建ち並ぶ。
写真;南を望む。
■蝦夷地の津軽藩
嘉永六(1853)年はペリーの黒船来航と覚えている方も多いと思うが、100年前から蝦夷(えぞ:現北海道)近海にはロシア船が出没し緊張が高まっていた。そのため、津軽藩は、幕府からたびたび出兵の命が出され、台場(砲台)の設置など、北方警備での重要な役割を担っていた。
文化四年の択捉島襲撃の後、幕府は津軽藩をはじめとする東北諸藩に三千人の蝦夷出兵を命じ北方の警備をさらに強化し、ロシア船打ち払い令を出している。
その一環として弘前藩は従前の宗谷から知床半島の斜里へ配置替えとなり102名の津軽藩士が斜里へ進駐した。ただし時期は既に秋で陣屋を建設したものの準備不足で冬を迎える。
その後藩士は正体不明の病気にかかり、次々と人命が失われていく。これは浮腫(ふしゅ)病(水腫病とも)といわれ、むくみが足先から全身に伝播し、内臓も腫れ苦しんだ上で死に至るもので偏った栄養が原因とされている。
ちなみにこの病気、壊血病の一種で、世界史の大航海時代にも恐れられた病気。ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見の航海では、180人の船員のうち100人がこの病気で死亡している。一樽のレモンがあれば死ぬことは無かったなどと良く言われる。
実際津軽藩士は魚を文化四年の9月から翌年4月まで7ヶ月も食べられなかったという位なのでビタミンC豊富な野菜なども食べていなかったと思われる。しかし、奥蝦夷地でのみ見られた病気のため、当時の人々は寒さが原因の病気と考えていた。
イギリスでは50年前の1753年に野菜や果物で予防できるようだということは分かっていたようだが日本には伝わっていない。ましてビタミンCの発見は1920年だ。この後日露戦争に至っても壊血病や脚気は軍隊の士気に大きな影響を及ぼしていた。
アイヌの人々にはこの病気が少なく、飲まれていたハマナスのお茶が好影響を与えていたようである。幕府は後に対策としてコーヒーを支給し、薬とするようになる。これがコーヒーが広まるはじめとされている。ただし、コーヒーの薬効はビタミンB補充が主で、ビタミンB1欠乏が原因の脚気との混同もあったようだ。
斜里の津軽藩士には、翌文化五(1808)年8月に帰還命令が出されるが、生存者わずか17名(2人は越年者ではないが)。13人が病気で宗谷などへ離脱。72人が病死という悲惨な状況となる。このいきさつは生存者のひとり、当時22才の津軽藩士斎藤勝利が記していた「松前詰合(つめあい)日記」に詳しいが、昭和29年にこの日記が東京の古本屋で発見されるまで弘前では事件に関するまとまった記録は残っておらず、隠蔽或いは無関心により忘れ去られていた。
斜里町側でもこの日記が裏付けとなり、由来が不明だった文化六年の「死亡人控(過去帳)」と文化九年建立の二基の供養碑が、津軽藩士殉難に関したものであることが分かったという状況だった。
その縁があり、弘前市と斜里町は友好都市となり、7月に斜里町では弘前ねぷた祭りが行われている。