前沢宿から平泉まで
前沢から南下し、徳沢一里塚のある山を越えると衣川を渡る。更に進むと中尊寺参道入り口に至る。
平泉は奥州道中の伝馬所が置かれた宿場ではないが、奥州藤原氏の栄華を偲び、訪れる人は多かった。
松尾芭蕉も一関に二泊し、平泉まで足を伸ばしている。
中尊寺では「五月雨の 降りのこしてや 光堂」
と高舘では「夏草や 兵どもが 夢の跡」の句を残している。
奥州道中は中尊寺を過ぎ、現在の国道4号線を東に外れ、高舘義経堂、無量光院跡にある平泉一里塚を過ぎると現在の平泉駅に至る。この付近から毛越寺へ向かう参道が延びている。
高舘は小高い山になっており、その頂上には伊達綱村が天和3年(1683)に建立した義経堂があり、中の義経の像を見ることが出来る。この場所は、源頼朝の圧力に屈した藤原泰衡に襲われた義経が自刃した場所とされている。当時は北上川がもっと東を流れており、義経が住んでいた館は高舘山より東と思われる。
藤原秀衡が造営した無量光院(むりょうこういん)は宇治平等院の鳳凰堂(ほうおうどう)を参考にしている。秀衡居館の伽羅(きゃら)の御所に隣接した秀衡寺院であある。 その遺跡は現在水田となっているが、池跡・中島・堂礎が残っている。
東西に走る伽藍の軸線が東門・橋・中島・堂を貫いて、後ろにに金鶏山(きんけいざん)が望まれ、大きさも参考にした平等院鳳凰堂より大きな壮大な寺院であった。発掘作業は現在も盛んに行われている。
昭和のアイオン、カスリン台風では平泉も水没し、陸の孤島と化している。そのため、堤防は高く造られ往時の北上川の眺めとは大きく違っている。堤防近くには柳の御所遺跡があり、重要な出土品が多く発掘されたためバイパスの経路変更の一因となっている。
平泉は観光客も多く、シーズンの休日などは国道4号線は大変な渋滞に陥る。現在高舘山と北上川の間にバイパスの工事が進められており、開通後はスムーズな交通が期待できる。同時に堤防のかさ上げも行われているが、この工事の計画時には、景観との兼ね合いからルート選定などにかなりの論争が見られた。
また、平成20年6月14日午前8時43分頃、付近の厳美町付近で岩手・宮城内陸地震が起き、中尊寺本堂などに多少の被害が出ている。
奥州藤原氏の成立(前九年の役、後三年の役)
奥州に京から独立した勢力範囲をおよそ100年にも渡り維持した奥州藤原氏。そのきっかけは前九年の役に遡る。
前九年の役以前、坂上田村麻呂が造営させた胆沢城は鎮守府として蝦夷支配の最前線となった。10世紀頃には国府多賀城と同等まで力を持ち、衣川を挟み半ば独立状態となっていた。この北上盆地の有力豪族として力を持っていたのが安倍一族である。この頃北上盆地は奥六郡(おくろくぐん)と呼ばれている。
永承六(1051)年の前九年の役は衣川を越えて安倍一族が南下したことが発端となる。源頼義との12年間の戦である。 奥州藤原氏初代藤原清衡の父経清は妻が安倍貞任(さだとう)の姉妹だったためこのとき安倍氏側で戦った。
戦況は安倍氏側優位で進むが、横手に拠点を置いた清原武則(たけのり)が頼義側に付き形勢逆転、安倍氏は盛岡の厨川柵で敗れている。
この戦の最中、天喜四(1056)年に清衡は生を受ける。経清は敗戦で処刑されるが、母が清原武則の嫡男武貞(たけさだ)と再婚したため一転して清原本家の継承者の一人としての資格を持つことになる。
清原氏は前九年の役で従来の出羽の他に安倍氏が握っていた胆沢鎮守府の勢力範囲を手に入れ、今の青森県にも勢力を広げている。今の青森、岩手、秋田の殆どを支配地域に組み入れた事になる。
永保三(1083)年、後三年の役が勃発する。主戦場は奥六郡から横手盆地にかけてで約5年に渡り戦いが繰り広げられた。基本的には清原氏の内紛で清衡と異母兄、同母弟が当主の座を争い、介入した陸奥守、源義家(よしいえ;源頼義の嫡男)と同盟した清衡が最終的に勝利した。
一方、前九年、後三年の役を通じて源頼義、義家父子は北東北の支配権を確保しようとしていたが朝廷に退けられている。源義家も後三年合戦終結と同時に陸奥守を解任されている。背景として京では藤原氏による摂関政治の時代から上皇による院政期に変わっており、藤原氏の私兵的な要素が強かった源氏の強勢を牽制しようとの思惑が白河上皇にあったともいわれる。また、北東北の産物をきちんと朝廷に届けてもらうためには在地の清原氏が相応しいとの判断もあった。いずれにせよ源氏としては遺恨が残った訳で、頼朝による奥州討伐にも繋がる萌芽がこの時既に出来ていたといえる。
奥州の産物と奥州藤原氏支配の確立
奥州の産物だが、第一には中尊寺金色堂に見られるように金の産出が挙げられる。当時は砂金が大量に産出されている。また、八戸を中心とする地域では馬産が盛んで日本一の駿馬とされていた。現在見かけるサラブレッドなどよりは小型の種類であったという。
また、弓の矢羽根に使われる鷹の羽や現在の北海道からの中継でアザラシの皮も特産品となっている。これは高級馬具となるもので京の公家には大変喜ばれた。青森県の十三湊(とさみなと)を利用しての北宋との貿易も行っていた。
これらを京へ送ることにより朝廷との良好な関係を保っていくのである。
北東北の支配権を獲得した清衡は、上記産物の献上により朝廷の信任を得、後三年の役後陸奥国ナンバー2に値する陸奥押領司(おうりょうし)を任じられることにより軍事指揮権、警察権の行使を認められる。この頃、父親の姓、藤原を名乗ることを認められている。こうした藤原摂関家との関係強化から多賀国府内の藤原摂関家の荘園の管理も任され、やがて多賀城の国府自体にも影響を及ぼし、福島から青森まで東北地方全域を支配地域としている。
そして、満を持して拠点を東北のほぼ中心の平泉に移す。
奥大道と仏教
平泉に拠点を移した清衡は福島県の白河の関から青森県の外ヶ浜に至る街道を整備する。奥大道(おくだいどう)と呼ばれるこの幹線は奥州道中の基礎となっている。のみならず一町毎に卒塔婆を立て目印としている。一里塚の始まりである。これには金色で阿弥陀像が描いてあったとされ、単なる標識としての意味を越え、清衡の仏教への傾倒を示している。
そこには永きに渡る戦乱で穢れた奥州を浄化しようとする浄土思想を垣間見られる。清衡自身も多数の人々を手に掛けてきたため却って平和を願う気持ちが強かったのだろう。紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう;国宝;中尊寺経)や中尊寺の整備など、その思想実現への投資は怠らなかった。
金色堂は天治元(1124)年に完成、それを待つかのように大治三(1128)年清衡は73歳で亡くなる。
中尊寺
中尊寺といえば金色堂。一般のイメージはこうだと思うがこの金色堂は藤原氏の仏堂及び廟所である。総金箔張りの建物に阿弥陀仏の須弥壇(しゅみだん)が3基並んでおり、ミイラ化した遺骸が納められている。中央が清衡、向かって左が基衡、右が秀平衡である。源頼朝に滅
ぼされた泰衡は首級のみ納められている。
金色堂は5.48m四方で扉、壁、軒から縁や床面に至るまで漆塗りの上に金箔が貼られている。木瓦部分は解体修理時に金箔の痕跡が無かったため金箔貼りでは無い。
螺鈿(らでん)もふんだんに使われた金色堂もすばらしいが中尊寺自体は天台宗の東北大本山である。「吾妻鏡」には寺塔40余り、禅房300余りが所在する関山を埋め尽くしいたという。
実際に行って見た。関山の麓に駐車場があり、そこを土産物屋が囲んでいる。そこから金色堂まではひたすら上り坂で結構時間が掛かる。山の頂上に金色堂があると考えるとイメージしやすいだろう。
最初の上り坂は月見坂と呼ばれ、樹齢300~400年の杉に囲まれていて既に外界とは違う場所に来たと思わせる。やがて茶屋が見えてくると建造物が多くなってくる。
本堂、大日堂を過ぎるといよいよ金色堂である。ちなみに金色堂に隣接して讃衡蔵(さんこうぞう)が建っており、紺紙金銀字交書一切経などを見ることが出来る。
その奥には経堂、旧覆堂、能舞台などがあり飽きさせない。
良く日光東照宮などと較べて迫力が無い、物足りない等との感想も耳にするが、東照宮と較べても500年前にこうした建築物があったということは驚異的でもある。