【写真】奥州道中 [2502]
読み;さかいのみょうじんいちりづかあと
所在地;福島県
状況;残っていない
案内板;無し
塚木;不明
大きさ;径 / 高さ
指定;
位置;北緯 /東経 /AL
更新情報;2511追加
【写真】奥州道中 [2502]
「ちゃんと歩ける日光街道 奥州街道;山の渓谷社」によると、「境明神村地内にあったが位置は不明、江戸日本橋から四十五里目」とある。
痕跡もないので、仮に境の明神付近としておく。
【写真】奥州道中 [2502]
境明神社から北上。
途中白坂宿を過ぎて皮籠へ至る。
【写真】奥州道中 [2502]
【写真】奥州道中 [2502]
【写真】奥州道中 [2502]
【写真】奥州道中 [2502]
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【写真】奥州道中 [2502]
【写真】奥州道中 [2502]
【写真】奥州道中 [2502]
白河市HPによると、
「境の明神は、白河市と栃木県那須町の県境に二社並立している神社の通称である。
白河から見ると、陸奥側(白河市)には玉津島明神(女神・衣通姫)、下野側(栃木県那須町)には住吉明神(男神・中筒男命)が祀られている(※)。
社殿については、会津領主蒲生氏により造営され、白河藩主本多能登守により改修されたという記録があるが、現存する社殿は、火災による焼失のため、弘化元年(1844)に再建されたものである。
松尾芭蕉の奥の細道俳諧紀行で、みちのくの第一歩を記した場所として句碑や歌碑が建立されているとともに、大名家や商人から多くの燈籠が寄進されていることから、陸奥・下野の国境である境の明神として重要な場所であったことがうかがえる。
また、神社の向い側には、南部藩出身と伝わる一家が営んだ「南部屋」と称する茶屋跡や、松平定信の時代に建てられたという「従是北白川領」と刻まれた石柱がある」
とある。
道路より高いところに神社があり、反対側には領界石や白河二所之関址碑がある。
【写真】奥州道中 [2502]
【写真】奥州道中 [2502]
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