写真;JR後潟駅。
現在状況;残っていない
北緯 40.55.53
東経 140.39.47
AL 10m
六枚橋川を渡ると、松前藩の参勤交代に由来するという「昇龍の松」という松の大木が有るという。
他には代わり映えのしない景色が続くが、この付近では意外と松の木などの名残を見掛けることが出来る。
写真;後潟駅前の松。
■蝦夷地の南部藩
文化元(1804)年に通商を求めロシア使節レザノフがロシアの全権大使として長崎に来航したが、幕府は半年も長崎に留めた上で通商を断わっている。この時の幕府側担当者は目付けだった遠山金四郎たちである。
その報復のため文化三(1806)年ロシア軍艦は樺太(からふと)の松前藩出張所を、翌文化四(1807)年には択捉(えとろふ)島の漁港を襲い、番屋や倉庫を焼き払った。
択捉島には寛政十(1798)年以後幕府や盛岡、弘前藩等が警備隊を送り文化四年には300名程が進駐していた。 この時、指揮権を持つ旗本は弱腰で盛岡、津軽藩兵の士気は高かったようだが、襲撃を許す。更にこの場に間宮海峡を探検した間宮林蔵が居たが、ロシアの発砲を挨拶の礼砲と間違えて兵士に伝えるなどし、やすやす上陸を許す。上陸したロシア兵は16~17名と少数で人数比では20:1だが、幕府側は弾薬を物々交換で毛皮などに換えているというお粗末さで、その日のうちに敗走した。