写真;青森ベイブリッジからアスパムを望む。奥は停泊中の飛鳥Ⅱ。
青森宿から油川宿まで
青森宿を出ると突き当たりの善知鳥神社の前には制札場があり、札の辻と呼ばれていた。クランク状に西進すると枡形に至る。現在のJR青森駅だ。
更に進むと青森市立森林博物館の北側青森市役所柳川庁舎付近を通り沖館村に入る。青森ベイブリッジの沖館側起点である。
沖館の一里塚を過ぎると新田村に入る。この付近、江戸時代から残る古い地名だが、各々20~30軒ほどの農村だった。沖館から油川までは松並木があったというが、今は無い。
油川の入り口山手には代官所があり、明誓寺、神明宮、浄満寺の寺町が連なる。間もなく羽州街道との追分に至る。
浄満寺は奥瀬氏の菩提寺で青森開港の責任者森山弥七郎供養塔もある。
湊の施設は油川河口にあった。
写真;沖館から青森方向を望む。
新城宿から油川宿まで(羽州街道)
現在の津軽新城駅を北上すると、国道7号線を横切る。現在田で建設中の新幹線の車両基地を眺めながら北上すると油川に至る。
新城より北は往時も平坦地で歩きやすいが余り変化はない風景だっただろう。ただ、油川の入り口は時期により二通りあったという。
写真;羽州街道、松前街道分岐の碑。
羽州街道追分
弘前藩の参勤交代は羽州街道経由で行われており、この街道と奥州道中の分岐点は油川宿にあった。
現在「田酒」(でんしゅ)で有名な西田酒造の前には「奥州街道 羽州街道 分岐之地」と書かれた碑がある。その説明書きにはここまでが奥州街道で先は松前街道とある。青森市善知鳥神社前にも奥州街道終点記念の碑があるのだが・・・。
写真;分岐の碑の説明書。
津軽藩の本拠地は弘前で、参勤交代は羽州街道経由で行われていた。その羽州街道と奥州道中の分岐点は油川宿だが、この道は油川や青森からの物流や異国船に備えた北海道への往来に利用された。
このHPでは、油川より北、三厩までを奥州道中としている。ただ、青森県では松前街道との呼称が一般的。他には「上磯街道」「外ヶ浜道」とも呼ばれていた。
ちなみに西田酒造は元禄時代に近江より移ってきた商人だという。ただし、酒造メーカーとしてのスタートは明治11(1877)年で青森市には他に酒造メーカーは無い。
写真;西田酒造のこみせ(アーケード)。
油川宿
大浜とも呼ばれていた油川宿は戦国時代奥瀬氏が城を築いていたが津軽為信に攻められ城主は南部に逃れたという。
その後弘前藩の支配下に入るが、残った商人やアイヌ、親南部派たちは簡単には屈しなかった。
扱いづらい油川の力をそぐため、江戸への廻米を認められた弘前藩は、新たな湊を善知鳥村(現在の青森市)に造営する。
「廻米」とは、弘前藩江戸屋敷で消費される米を輸送することで、太平洋側を通って輸送していた。その重要な荷の積み出しを青森湊から行うということで、相対的に大浜の地位が下がることになる。
その上で江戸時代初期には油川への商船の荷揚げを禁じており、木材の積み出し港とされたが、沖合いでの取引で藩の規制を逃れていた。
寛文四年(1664)には閉鎖が緩められ、蟹田の塩やアイヌへの扶持米の積み出しが認められたが、逆に青森の船問屋からクレームがつき再び閉鎖されたりもした。
それでも奥州、松前、羽州の三道の分岐点で湊もある油川は発展を続け、最終的には弘前藩も油川の荷揚げを黙認するようになる。
だが、江戸時代を通して繁栄を続けた大浜も明治に入り青森~新城の直通道路が出来てから衰退していく。それから既に120年が過ぎ、現在は青森市の一住宅地と化している。
写真;市営バスのバス停。
浄満寺
国道西側に浄満寺がある。良波和尚により設置された外が浜では最古の寺という。
浄土宗のこの寺には青森の開港奉行を務めた森山弥七郎供養碑が設置されている(青森市有形文化財)。これは元々ここにあった訳ではなく羽白→野木和を経由し現在地に納まっている。それにしても青森開港は油川の人々にとっては既得権益を奪われる出来事だったはずだが、その責任者がここに供養されているとはいささか不思議である。
また、本堂裏には天明三(1783)年、天明の大飢饉で餓死した千人の人々が埋葬された「千人塚」もある。油川18600人のうち3分の2が餓死したというから大変だ。
明誓寺
浄土真宗のこの寺は寛文三(1663)年に正玄和尚が開設したとされている。
大正時代に油川に缶詰工場を建てて発展に尽力したイタリア人ファブリーの墓がある。彼が建てた洋館が油川南端の市兵衛川沿いに建っている。
写真;北前船。
北前船(北前型弁財船)
北前船(きたまえせん)は和船の一種である弁財船(べざいせん)のうち日本海側の青森~瀬戸内海~大阪を往来した千石船の名称である。
菱垣廻船、樽廻船も構造的には余り変わらない。150~1500石と様々な大きさがあった。
和船全体の特徴でも有るのだが、水密甲板が無いことと可動式の巨大な舵が特徴である。甲板が無いことで荷の積み下ろしが楽で浅瀬の多い沿岸の湊では必要な可動式の舵である。
反面時化た際には船内に海水が浸入して来るし、可動部分の多い舵は壊れやすく、遭難の確率が高くなる。
青森市にある「みちのく北方漁船博物館」に北前船が復元されている。それも実際に帆走可能な状態のものである。「みちのく丸」と名づけられた千石船は全長32m、全幅8.5m、帆柱までの高さ28m。宮城県気仙沼の船大工が棟梁をつとめた。平成17年10月に進水し、陸奥湾で自立航行の実験を行っている。
なお、弘前藩の江戸廻米は太平洋航路のため厳密には北前船ではないのだが、基本構造はほぼ同じだ。
ちなみに2008年のNHK大河ドラマでは主人公を乗せての撮影も行われた。実際にすぐ航行できる和船は現在この「みちのく丸」のみ。
また、和船は西洋船と違い外洋航海の能力が低く沿岸航海に特化しているが、これは、鎖国により外洋船の建造を禁じられていたため。優れた沿岸航海能力により、北前船をはじめとする弁財船は明治に入ってからもしばらく使われていた。
みちのく北方漁船博物館
青森ベイブリッジを渡りフェリー埠頭へ向かうとみちのく北方漁船博物館がある。道路からの目印はなぜか飛行機の展示だ(詳しくは分からないが国産旅客機YS-11か)。
国の重要有形民俗文化財である67隻の「ムダマハギ」型漁船が収集されている。この形式船のそこはくりぬきで側面を板で作っているもので丸木舟よりは進化した形態。
貴重なのだろうが、使い古された漁船は実際のところみすぼらしく見える。不勉強なため、価値が分からないというのが正直なところだ。
建物自体のの趣は倉庫といった感じ。
ただしゴンドラや北前船の復元船及び模型などの展示も充実している。私的には北前船がお気に入り。
冬季閉館。
青森市立森林博物館
この建物、まだ中は見に行ったことは無いが、映画「八甲田山」では撮影にも利用された。青森市役所柳川庁舎の南側。
現在森林博物館だが元青森営林局の建物だ。明治36年青森市橋本2丁目のNTTの近くに建てられた初代の建物が明治40年に火災で焼失した翌年、現在地に建てられたものである。
青森ヒバを使い、ルネッサンス様式で建築されている。
良質なヒバが多い地域なので(青森ヒバはブランドだ)、かつての青森営林局は大官庁で岩手、秋田も管轄していたが、現在は林業の減退により役所も縮小されている。
写真;ナッチャン world 後部
フェリー埠頭(ナッチャンRera、ゆにこん)
油川手前の沖館のフェリー埠頭からは双胴型の高速フェリーが函館まで夏期1時間45分で結んでいた。双胴型で揺れに強く、海水のジェット噴射により高速で航行するのが特徴だ。北前船からは想像もつかない進歩といえる。
船名だが、初代船のイラストを公募した際の受賞者のあだ名だという。
写真;ナッチャン world 前部
なお、この世界最大のウエーブピアサー型高速フェリーは燃料費高騰の余波を受けて、2008年10月、1年ほどの就航で運行休止となった。
実際、青森~函館はJRの青函トンネルで行けば同じ時間で着くし、もともと運輸関係のトラックは従来型のフェリーを利用していたため実際の影響は少ないかも知れない。今回撤退する東日本フェリーとは別の会社のフェリーの運行は継続される。
また、青函航路とは別の下北半島大間から函館の航路も撤退することとなり、実際の影響はこちらの方が大きい様子。これは大間からは青森やむつ市に行くよりフェリーで函館に行ったほうが早く、利用者が多く生活路線となっているため。
写真;ナッチャン world とターミナルビル
青森側のターミナルビルは2008年5月完成で、フェリー埠頭公社から土地を借り、東日本フェリーが建設したもの。高速フェリー撤退時には原状回復(つまり、解体、更地に戻す)契約となっているが解体ではさすがにもったいなく、従来船を引き継ぐ道南フェリーが使用したい、との意向があるとの事。ナッチャン専用に建設したもので改造も必要なようだが、ぜひ活用してもらいたいものである。
以前の地元新聞を見ると漁業補償の問題もあったとの事。陸奥湾航行時にはウォータージェットによる波が海底の大量の砂と共に付近の漁港に押し寄せ、船が壊れたり、砂が大量に港にたまったりしていたよう。
これは以前のジェットフォイルや小型の高速フェリー時代からあった問題のようで、陸奥湾の出口が狭く、遠くの航路を取れないことも原因のひとつ。実際、陸奥湾の漁港などは津波の心配が余りないせいか、防波堤や防潮堤が岩手県三陸などと比べ余り整備されていない印象。速度を落としてほしいとの要望もあったようだが、船自体が無くなる事に・・・。
それにしても、1隻90億、軽油の燃費がリッター8mのこの船はどこに行くことになるのだろう。東日本フェリーではリースか売却の方針とのことだがばらばらになってしまうのか。
また、2008年9月28日にはナッチャンWorldの救命艇から出火し数便欠航と踏んだり蹴ったりである。しかし、火の気が無い救命艇から出火とは・・・・。
写真;従来型フェリー「びなす」
なお、従来のフェリーは平成20年12月1日以後も現在と同じ便数を確保することが正式に確定したとの事。すると、減るのはナッチャン分のみということに・・・。 また、大間~函館のフェリーは赤字分の県地元自治体の補填により1年間の運行継続が決まった様子。
ただし、ナッチャンシリーズの前にも「ゆにこん」という名前で青函航路に高速船が就航していた。初代はジェットフォイル。2代目はウオータージェット推進の単胴船で乗用車とバスのみでトラックは積めない。
初代は旅客のみで採算割れ。2代目は輸送が不可で採算割れ。ナッチャンはトラックも運べ悲願を達成したはずだったのだが・・・。
写真;ジェットフォイル(写真は佐渡汽船)
いずれも燃費の悪さによる燃料費の負担増。冬季津軽海峡の厳しい気候による運休と故障。そして船が出す波による漁業補償など、根本的な課題を解決せず即撤退という繰り返しのような気がするが、従来船が残るだけでも良しとするしかないのだろうか。
青森のフェリー埠頭に停泊したままのナッチャンだが、本日(090222)の地元新聞にはゴールデンウィークから秋まで期間限定での復活が検討されているという記事が載っていた。
漁業補償のためか燃費のためか速度を落とし2時間40分程で函館~青森までを結ぶ計画。好評ならもう少し小さな高速船の建造も検討するという。うがった見方をすれば買い手も付かないし燃料費も昨年からは大分下がったので取り敢えず動かしてみよう、といった所のような気もするが、運行再開は喜ばしいことで実現したら乗ってみたいものだ。個人的にはクルーザーのような外観が好みなのでナッチャン自体を残して欲しいし、新造の話も「ゆにこん」への回帰のようで同じ轍を踏まないように老婆心ながら危惧するのだが・・・。
3月には試験航行を開始するナッチャン、やはり漁業への「引き波」の影響を調査するようである。いずれにせよ、和歌山まで点検に行ったり、横浜までイベントに行ったりと急に活動が活発化しているようだ。ちなみに運行主体は従来船を引き継いだ会社となるようだ。
結局はゴールデンウィークは間に合わず、夏休み期間の運行になるようだ。