【写真】奥州道中 里程標[2503]
ふるかわいちりづかあと
宮城県大崎市
現況;残っていない
0910写真追加 2503加筆修正
【写真】奥州道中 里程標[2503]
十日町交差点から少し北に進んだところに仙台からの距離を示す柱標(一里程標)がある。ここを一里塚とする情報もある。
ただ、里程標起点は仙台北目町ではなく芭蕉の辻だったはずなので、確定とは言えないだろう。
また、古川宿の入り口付近にあったというネット情報もあり、これによると古川南町のJR踏切付近のようである。また、歴史の道調査報告書には「古川宿入り口の一里塚も不明である」との記述がある。
ともかく、基本的には位置不明だ。歴史の道調査報告が行われた頃には既に同じ状況だったようである。
【写真】奥州道中[2409]
熊野神社付近をスタートする。北上するこの道は県道1号線である。
矢越会館のところで江合川を越える。越えたあたりは休塚という地名である。街並みとしては良くある感じで特筆するような点は無い。
国道4号との交差点に一里塚跡碑があるという(一里程標のようではあるが)。もっとも歴史の道調査報告書の地図では休塚付近に一里塚の表示がある。
【写真】奥州道中[2503]
【写真】奥州道中[2503]
【写真】奥州道中[2503]
【写真】奥州道中[2503]
【写真】奥州道中 里程標[2503]
【写真】奥州道中 里程標[2503]
【写真】奥州道中 里程標[2503]
【写真】奥州道中 里程標[2503]
【写真】奥州道中 里程標[2503]
【写真】奥州道中[2409]
【写真】奥州道中[2409]
【写真】奥州道中[2409]
【写真】奥州道中[2409]
【写真】奥州道中[2409]
【写真】奥州道中[2409]
【写真】奥州道中[2409]
【写真】奥州道中[2409]
【写真】奥州道中[2409]
【写真】奥州道中[2409]
【写真】奥州道中 江合川[2409]
【写真】奥州道中 江合川[2409]
【写真】奥州道中[2409]
【写真】奥州道中[2409]
【写真】奥州道中 緒絶橋[2411]
歌枕。緒絶の橋には平安時代,男女のもつれで都から追われ、この地で身投げした者がいるという伝説がある。そのような故事から古来有名な歌枕「緒絶の橋」であると言われ、初期万葉の時代から「白玉之緒絶者信」と詠まれていた。中古三十六歌仙の1人藤原道雅は「みちのくの をだえの橋や これならむ ふみみふまずみ 心まどはす」と伊勢の斎宮当子内親王に歌を送った事から、勅撰和歌集に選ばれ、緒絶の橋は第一級の歌枕として認識されていった。松尾芭蕉は訪れる事はできなかったものの「平和泉と心ざし、あねはの松、緒だえの橋など聞伝て、人跡希に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。」と奥の細道に記している。
【写真】奥州道中 緒絶橋[2411]
【写真】奥州道中 緒絶橋[2411]
【写真】有備館[2503]
岩出山には伊達藩の藩校である「有備館」がある。有備館は二代宗敏、寛文三年(1663)に岩出山城の二の丸が火災により焼失し、仮居館として建てられたもの。その後三代宗敏の時代になり二の丸も整備され、元禄四年(1691)に領内の学問向上などの目的から仮居館は「春学館」と称し学問所として開設される。
翌元禄五年(1692)に現在地に移り名称も「有備館」と改め、、本格的に手が加えられ、現在に見られる木造平屋建て、寄棟、萱葺の建物が整備される。庭園は四代泰治の時、正徳5年(1715)に仙台藩石州流茶道三代清水道竿によって作庭されたもので、回遊式池泉庭園で借景として岩出山城の岩肌を見せ、池の中には茶島を中心として鶴島、亀島、兜島などを配している。
庭園の特徴として石や燈篭の使わず、自然物だけで構成している点が挙げられ、大名庭園として旧態を保っているのは、ここと会津若松の「御薬園」しかないと言われている。昭和八年に有備館は地方領主が建てた最古の学問所として国指定史跡に、庭園は国指定名勝となっている。
【写真】有備館駅[2503]
【写真】有備館[2503]
【写真】有備館[2503]
【写真】有備館[2503]
【写真】有備館[2503]
【写真】有備館[2503]
【写真】有備館[2503]
【写真】有備館[2503]
【写真】有備館[2503]
【写真】有備館[2503]