福岡宿から金田一宿まで
福岡宿を北上すると、八戸街道との追分に至る。更に進み、馬淵川を渡ると金田一宿である。
■相馬大作事件
二戸の市街を通ると、「時代の先駆者 相馬大作」との看板を見ることが出来る。津軽の人が見たらぶちきれそうなこの看板の人物は、南部と津軽の遺恨がらみで名が知られる人物である。
文政四(1821)年に起こったこの事件の顛末は以下の通りである。
津軽寧親の江戸城での席次が南部利敬と同じであったが、利敬が亡くなり、後継者は即官位は貰えないため津軽より南部が格下という事態となる。これに憤りを感じた南部藩士(厳密には藩士ではなかったというが)下斗米秀之進が現大館市の岩抜山で津軽公を襲撃しようとしたもの。
目的は寧親の引退で、引退を承諾すれば襲撃をやめるつもりだったという。
このあたり、現在の我々には少し分かりづらいかもしれない。南部藩にすれば津軽氏はかつての家臣でその津軽氏より格下と見られることが我慢ならないということは理解できる。とはいえ、その遺恨は200年以上も前の話だ。それを忠臣蔵よろしく天誅を下すというのはいかがなものか。
なお、この襲撃は事前に発覚し、津軽公は別の道を通り弘前に戻っている。つまり、未遂に終わる。下斗米秀之進は盛岡藩に迷惑が掛からぬよう、相馬大作と改名し、脱藩し、江戸へ逃げる。逃亡先で捕まった大作は斬首されるが、彼の行為は「武士の鑑(かがみ)」として称賛されたという。今ならただの政治テロのような気もするが。
ちなみに、この時津軽公が参勤交代経路を変えたことがとがめられ、隠居が早まったというから、相馬大作の行為も効果があったともいえる。
とはいえ、「武士道」を理解することはなかなか難しいものだ。
金田一温泉
緑風荘については金田一一里塚跡のところで触れていますが、金田一温泉全体の説明は以下の二戸市HPに網羅されている。
「寛永3年(1626)の発見と伝えられ、古くは南部藩の指定湯治場だったことから「侍の湯」と呼ばれ、永い歴史を持つ金田一温泉は現在7軒の入浴施設があり温泉郷を形作っています。
金田一の地名の由来について諸説ありますが、南部氏の祖 光行の第4子の四戸氏から出た金田一氏にちなむという説や、アイヌ語で山の方にある川(または沢)の所とする説などがあります。また、別名湯田温泉とも呼ばれていますが、この地区はかつて県内有数の地すべり地帯であり、田んぼから湯が沸いていたことから「湯田」という地名がつけられました。
金田一温泉は現在4つの源泉が使用されており、泉質は低張性アルカリ単純泉、身体の心まで温まります。座敷わらし伝説の残る宿や、金田一京助、三浦哲郎ゆかりの宿などがあります。
また、金田一温泉近隣公園にあるプールは夏季には子供たちを中心に大にぎわいとなります。近くには立木オーナー制の観光りんご園があり、秋には収穫祭が行われ、名物となった湯の香市も宿泊客に好評。四季を通じて訪れる人のたえない県北を代表する温泉郷です。」