平泉をを出ると祇園社を通り山の上を通る国道4号線と旧国道の分岐点で旧道に入る。ここをしばらく歩くと祇園一里塚に至り山ノ目宿に入る。
奥州道中は旧国道から10mほど東を通っていたというが、現在そこにはJRの線路が通っている。一関は水害と切り離せない地域だが、一関遊水池とJRの線路で塚も残っていない。この遊水地、北上川を挟みかなり広い範囲が堤防で囲まれている。大雨があると北上川からあふれた水が遊水地を満たす。大雨の時期には必ずといっていいほど新聞の一面を飾る景色である。
山ノ目宿は現在一関市街地と一体化し、別の町という感覚は無い。JR東北本線では一駅の間で磐井橋からの距離も2km程度。山ノ目の東は区画整理で新しい住宅地が広がっている。
一関宿からはわずか十七町三十四間しか離れていない。上町と下町に分かれており上町が先に出来上がり(慶長十七(1612)年)、下町は少し遅れて町立したようである。合わせて七町二十五間の長さ。
山ノ目にある配志和(はしわ)神社は神話時代から続く由緒ある神社。江戸中期にはかなり賑わっていた。天明六年(1786)には旅行家または民俗学者といわれた菅江真澄が、この地を訪れた記録が残っている。
延喜式内社で江戸時代の二段式庭園は日本100庭園の1つとされている。西紀1700年頃に阿部随波が、京都から晋朴(しんぼく)という造園師を招いて造らせたものと云われる。上段は岡池(池に見立てた庭、下段は築山泉水式(山に見立てた造りに、池を配置したもの)である。ここの池は沢水を利用している瓢箪型のもので「月見が池」と呼ぶ。
山ノ目宿から一関宿
山ノ目を過ぎるとすぐ磐井橋に至る。川を渡ってすぐ磐井一里塚がある。堤防の築造で今は残っていない。
現在、この場所には松尾芭蕉が二泊したという案内板がある。その家は建替えられている。
一関は伊達藩の支藩として三万石を与えられ、田村氏が幕末まで支配した。伊達政宗のひ孫田村建顕(たけあき)を初代藩主とする。
田村氏は蝦夷征伐に功労のあった坂上田村麻呂にさかのぼるが一時断絶、伊達政宗の孫宗良が田村家を相続し再興された。
高札、伝馬、宿送(しゅくおくり)など藩政の自主権の根幹は伊達藩に優先権があり、石高も三万石の中でのやりくりは苦しく裕福な藩は少なかったがその中でも一関藩の財政逼迫は深刻だった。
伊達藩と、主従関係であった訳だが、重要な公務で資金が必要な際は本藩からの財政援助があった。
また、年末になると毎年ドラマが放映される「忠臣蔵」と一関藩は大きくかかわっている(討ち入りは太陽暦では1月だが・・・・)。中でも発端になった江戸城松の廊下刃傷事件にである。
藩主の田村建顕は事件の当日奏者番の一人として江戸城に登城していた。そのため、事件を起こした浅野内匠頭(たくみのかみ)の身柄を預かり、一関藩江戸上屋敷内で即日切腹となった。時は元禄14年(1701)3月14日(旧暦)のことである。
一関藩の参勤交代は4月と決まっていたため、3月末には一関を出発した。江戸まで12日の行程である。総人数は200人程、馬3匹程度が同行した。一関を発ち有壁宿で休息した後、奥州道中を南下して行った。
宿場としての一関宿は一関町(家数113軒うち村住まい23軒、町住まい90軒))と二関町(91軒)とでなり中心が一関町、起点が二関町。
水害
昭和22年のカスリン台風、23年のアイオン台風により、一関は2年連続で大水害に見舞われ未曾有の損害を被った。今でも市街地を歩くと、至るところに身長より高いその際の水位を示す表示板を見ることが出来る。
現在は一関遊水地が出来、洪水時にはそちらに水を流すなどで大きな被害は出ていないが、地元の方々は水防に対する意識が高い。
有壁から鬼死骸村まで道なき道を通る。
鬼死骸から南、奥州道中は車が通ることが出来る道からはずれ、廃道、林道を通る。
有壁側から車で探索に出掛けたが、旧有壁本陣跡、観音寺を北上すると伊勢堂林道の柱標が見える。砂利敷の4m程の道路で、途中まで車で乗り入れることが出来る。私はかなり奥まで車で行きUターンできなくなったが、そこで稲刈りをしていた方に聞くとそこはもう奥州道中ではないとのこと。
頂上のドコモのアンテナまで行くと行き過ぎで肘曲がり坂の案内板のすぐ北で分岐している細道がおそらく奥州道中だろう(時間が無く、歩いて確認できなかったが)。
この付近でも充分旧道の雰囲気を感じることが出来る。現在廃道のこの区間、峠道だが草の少ない時期であれば通ることも可能なようだ。
改めて確認に行った(1006)。現在肘曲り坂案内板の下に奥州街道の矢印が設置されている。北西に進むのが街道筋。
更に北上し、鬼死骸村の鬼石付近にある鬼死骸一里塚を横目に見ながら奥州道中を北上する。
もうすぐ一関だがこの付近では奥州道中はJRの線路に重なる部分が多い。