■鬼柳宿から花巻宿まで
鬼柳の番所を過ぎ、南部領に入ると黒沢尻一里塚を過ぎ黒沢尻宿に入る。黒沢尻宿は宿場ではなくいわゆる間宿(あいのしゅく)だったが、舟運の隆盛に伴い規模を大きくしていく。本陣も備えており、この「鍵屋」は大名行列の休憩所、宿泊所となっていた。
途中「二子一里塚」「成田一里塚」を過ぎ、しばらく平地を北上すると同心屋敷を過ぎ、豊沢川を渡り、「豊沢町一里塚」に至る。ここまで来ると既に花巻城下だ。
■現在の花巻宿
花巻市と北上市は「花北(はなきた)」と呼ばれ一体で語られることも多い。新しい県立病院も花巻と北上の中間に出来る。歴史的には花巻が中心的な地域だったが、現在は工業の誘致に成功している北上市の方に活気が有るように見える。北上には「鬼の博物館」「夏油温泉」、花巻には「宮沢賢治記念館」「新渡戸記念館」「花巻温泉」などの観光資源に恵まれている。
■花巻城
鳥谷ヶ崎城(とやがさきじょう)とも呼ばれる花巻城は安倍頼時が拠点を置いたのが始まりである。この地は奥州藤原氏を経て稗貫氏が支配していたが、天正十九(1591)年豊臣秀吉の奥州仕置で領地を没収され、津軽の地を失った南部氏に和賀と共に安堵される。同年に南部氏家臣の北秀愛(きたひでちか)が8千石の城代として花巻城を整備したのが現在の町並みの始まり。この時に花巻城と改称されている。
慶長三(1598)年秀愛が死去、父の北松斎(しょうさい/信愛;のぶちか)が城代となる。彼は慶長十八(1613)年に死去するまで息子の遺志を継ぎ城下の整備に努めている。その後、南部利直は次男政直に2万石格で花巻城主とし、政直が最終的に花巻城を近世城郭として完成させている。本丸、二層二階の櫓や重層の城門が建てられた。
政直に子は無く、その後は再び城代が置かれ、伊達藩への備えとして和賀・稗貫二郡の政治の中心地となったが、明治二(1869)年廃城となり取壊されている。
現在、遺構として残るのは移築された円城寺門と市役所前の時鐘堂。時鐘堂は盛岡用に作ったものが城下に音が届かず花巻に転用したと伝えられている。また、近年西御門も復元されている。
花巻の基礎を作ったのは北秀愛親子のため、地元では、彼らへの愛情が今でも残る。
北 信愛(きた のぶちか)
■北氏
高橋克彦「天を衝く」では九戸政実の最大の敵として登場する。歴史的にも南部信直擁立の立役者として知られる北信愛。Wikipediaなどから彼の生い立ちを調べてみたい。
北氏は元々剣吉氏といい、南部氏の居城・三戸城の北に館(剣吉館、剣吉城)があったため北氏と呼ばれるようになったという。
「奥南旧指録」に南部氏第三代当主南部時実の四男孫三郎宗実が北氏を称し、子を宗愛とする記述があるが、北信愛までの系図は残っていない。この間を前期北家とする分類もあるが正確には系図不明。
一方「参考諸家系図」に南部氏二一代南部信義の子・致愛とあり、これは信愛の父であるが、北氏の他の南部家伝承には信義の子に関する記述は無く、実子がいない可能性が高い。とはいえ、信愛が南部信義の孫だとするのは一般的に認められている(間に養子でもとったのだろうか)。いずれにせよ外祖父の剣吉五郎に養育された致愛は剣吉氏を継いで剣吉城主となったという。
だが、南部信義の弟で大光寺氏祖である堤光康の孫(光康の子で大光寺経行の弟たる弾正左衛門某の子)が信愛とする系図や工藤氏庶流の剣吉藤原愛正の子が信愛とする系図もある。正確なところは更なる研究が必要である。
さらに北信愛がその末子・愛久に分封する際、「種市」が本名であって実は藤原姓工藤氏であるとの言葉も残している。このため南部氏の北宗実の末裔説は後の創作だともされる。
相反する文書が多数存在し、系統がはっきりしていなかった北氏が歴史の表舞台に現れるのは信愛からで、しかも屋裏の変以後である。信愛の通称は剣吉彦太郎、北左衛門佐、北尾張守など(左衛門佐・尾張守は自ら称しただけで正式ではない)。子に北愛清、北定愛、北秀愛、養子に北信景、孫に三戸清乗がいる。
■北信愛
北信愛は、歴史に現れたときには南部一門の長老として既に八戸氏・九戸氏の次の勢力を有していたとみられている。元亀二(1571)年の「屋裏の変」では、田子信直(後の南部信直)を剣吉城にかくまい、南部晴政と対立したが、晴政隠居後は、晴継(晴政の子)の後見となり、晴継元服時には、烏帽子親として加冠の儀を執り行っている。
天正10年(1582年)、南部晴継が殺されて家督相続問題が発生すると、南部信直の擁立に尽力した。信愛が信直を擁立する際「南部根元記」によると、浅水城主南遠江守とともに「すぐりたる侍百人鉄炮百挺、何れも物具竪め田子におはします九郎信直公の御迎に越されけり」と、軍事力を背景とした行動があった。
北信愛は南遠江守の娘婿であり、南遠江守は信直の叔父にあたる人物であった。おそらく、北信愛の背後には南遠江守がいたとみてまず間違いないだろう。ともあれ、信愛は南部一族の有力者八戸政栄を味方にして、信直擁立の立役者となったのである。その後は信直の側近となり、内政や外交面で南部氏を取り仕切った。天正15年(1587年)には加賀の前田利家を訪ねて鷹を献上し、豊臣秀吉に臣従する意思を示している。
天正18年(1590年)、南部氏と秋田氏が比内郡を争った際、信愛の子・愛邦が戦死した。また信愛の弟・北弾正は、比内郡で南部側につき秋田氏に攻められていた五城目兵庫を救援に向かい、大館表の戦いで討死した。ただし弾正は一旦落ち延びて五城目領で自害したとも伝わり、自害した地には弾正と家臣12名(計13人)を祀る十三騎神社が建てられている。
天正19年(1591年)に九戸政実の乱が起こると、上洛して秀吉に援軍を要請した。また、九戸方につき南部氏によって滅亡した一戸氏旧領を北一族は与えられ、九戸政実への押さえとなった。長男・彦助愛一(定愛)は剣吉城から移って寺田館を領し、次男・主馬尉秀愛(直愛)は一戸城を領した。秀愛は九戸方の一戸猛攻に耐え、その功で乱後に花巻城8000石を得たとされている。秀愛は腰に銃弾を受けながら戦ったという豪勇の武将であった。
ただし、拝領は葛西・大崎一揆の後という話もある。8000石を以て鳥屋ヶ崎城と呼ばれていた城の城代となり、鳥屋ヶ崎を花巻に改めている。しかし秀愛は慶長3年(1598年)に死去、花巻城代は父・信愛が継ぎ本丸・二の丸・三の丸を整備し併せて花巻城下町を構築した。
ただし秀愛は一戸城の戦いで戦死したとも伝わるため、『一戸町誌 上』では秀愛の花巻領有を疑問視する。
翌慶長4年(1599年)、信直が死ぬと隠居しようとしたが、後を継いだ南部利直は許さず、なおも側近として重用される。その背景には八戸南部氏に対抗する人物がいなかった為とも言われているが事の次第は不明である。同年、剃髪して松斎と号す。
慶長五年(1600)、「関ヶ原の合戦」が起ると、南部氏は東軍に与して山形に出陣した。この時信愛は花巻城を守備した。同年、密かに領土拡大を狙った伊達政宗が煽動した旧和賀領主和賀義忠の子和賀忠親の一揆勢は南部氏の留守を狙って一揆を起こし、花巻城は本丸まで攻囲された。北信愛は城兵を指揮して、よく花巻城を守りきった。
信愛は信直が死去したのちは利直に仕え、慶長十八年八月花巻城にて死去した。享年九十一または九十三であったと伝えられている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いではに花巻城を襲われたが、何とか守りきった。
慶長18(1613)年、死去。享年91。信愛は名跡継承を願わず死去したため、花巻は藩に接収され藩主南部利直の次男・政直が新たに二万石で花巻城に入った。北家は、惣領を継いだ長男愛一(定愛)の家と分家の五男(三男)直継(愛継)の家に分かれ幕末まで続いていくが、北信愛・秀愛の祭祀を継承したのは直継(愛継)の家である。長男愛一が分家していたためとみられる。
信心深い一面もあり、合戦の際には髻(もとどり)に観音像を忍ばせ、戦場に向かったという。