一基現存(東塚)
所在地;二戸市
案内板;あり
塚木;あり
北緯 40.15.13/東経 141.18.29/AL 175m
浪打峠から下ると、村松の手前、蒼然に東塚が現存している。
削られているようで塚自体ははっきり認められず松の木がかろうじて雰囲気を残している。
道路の向かい側には桜清水と名づけられた湧き水がある。
この一里塚、岩手で塚を研究していた方の自費出版本に載っていたのだが、今にして思うに、間隔距離が短い。
更なる調査が必要です。
■九戸城
中世の平山城で、主に九戸氏の居城である。
九戸城の築城時期ははっきりしていないが、一戸町実相寺の古文書では明応年間の九戸光政の治世(政実の四代前;1492~1501)に築城されたとされている。他には九戸政実が鹿角奪還に多大な功績を残したため南部晴政から付近を拝領したのが始まりとも言われている。
南側は大規模な堀がある。馬淵川が西を流れ、北を白鳥川、東を猫渕川が囲み南を除くと攻め入るのは難しい。まさに自然の要害である。盛岡城と較べると同じ平山城とはいえ、かなり山の上に所在していると感じる。 縄張りは本丸、二の丸、三の丸、若狭館、石沢館、松の丸からなる本丸、二の丸、三の丸、松の丸部分は九戸政実の乱後に蒲生氏郷の手によって改修を受け、織豊系の技術が導入された部分で福岡城と改名された後の遺構である。九戸氏時代の九戸城は石沢館や若狭館の部分ではないか、と考えられている。 南部信直は一時福岡城に入ったが、寛永十三(1636)年に南部利直が盛岡城に移る頃に廃城となっている。その間信直の孫・家直が城主となったが、元和元(1615)年に亡くなるとその後城主は置かれていない。
発掘調査でも天守などは見つかっておらず、近世城郭の体をなしていたか、構造物の位置などは不明である。
城跡は、昭和10(1935)年、国の史跡に指定され、現在は保存整備されており、ボランティアの方が案内してくれる