■盛岡宿から渋民宿へ
鍛冶町一里塚を過ぎると、同心町である上田組町を通り枡形を過ぎると江戸時代初期に造られた上田堤(高松の池)、高松神社に至る。神社付近には茶屋があり、[奥筋行程記](盛岡市民公民館蔵)には茶屋付近に松、杉、漆の並木有りとある。北上すると上田一里塚へと至る。 この付近からは標高が上がる険しい山道で黒石野の北は「座頭転がし」と呼ばれていた。現在の松園団地のあたりは明治天皇御巡幸の際にも馬車を降り、乗馬で登られたという。現在は松園団地となり坂はきついが道路は立派になっている。
小野松一里塚から笹平一里塚までは川沿いの道を進む。現在は四十四田ダム建設に伴い水没している。笹平以北は現在も余り景色が変わっていないと思われるが、旅人は西に岩手山、東に姫神山を望みながら渋民宿への道を急いだ。
参勤交代も少なく盛岡にも近いため、余り発展してはいなかったという。幕末に盛岡藩士漆戸茂樹が盛岡以北について記した[北奥路程記]では良い酒屋があるが町並みは良くないとある。
■現在の渋民宿へ
高松の池は日本さくら名所百選で冬は白鳥の飛来地としても知られる。笹平一里塚まではダムが出来たり、数万人が住む松園団地が出来たりとすっかり景色が変わっている。[岩手県「歴史の道」調査報告 奥州道中]のころ(昭和50年頃)も修道院敷地内の上田一里塚付近が町外れで松園団地も工事の初め頃だった。滝沢駅に向かう道から笹平一里塚への道は工業団地への道や農道で道路は良いが、廻りには何もない。渋民一里塚付近も渋民バイパスが出来、道路状況は大分変わっている。この塚を過ぎると旧4号線に出て間もなく石川啄木記念館があり渋民に入る。
■上田堤(高松の池)
盛岡城築城以前は上田沼と呼ばれ上中下の三つの小沼が集まっていて、葦、蓮などが茂る湿潤地だった。その後南部利直の時代、一体の水田の用水池としてここに堤を造った。
■石川啄木記念館
詩人石川啄木記念館は昭和45年に開館した。
その後、石川啄木生誕100年を機に昭和61年5月に現在の新館がオープンしている。
敷地内には渋民尋常高等小学校、斎藤家が移築されている。