現存しない(石の標杭)
所在地;岩手県盛岡市
案内板;柱標あり
塚木;なし
北緯 39.42.14/東経 141.09.24/AL 150m
里程の元標跡
現在の紺屋町。RCマンションの前に、一里塚を示す石碑がある。左写真は北を望みイワセンビルがアイストップになっている。後ろを振り返ると茣蓙九が遠くに見える。
現地にあった案内板によると、この場所には塚は元々無く、石の標杭があったが、文化(1804~)初年頃に撤去されたとされる。
付近の町名は鍛冶町、紺屋町であり、街道沿いの商業地であった事が分かる。
吉田松陰
嘉永五年(1852)年吉田松陰は盛岡を訪れている。ペリー来航の前年で松蔭22歳である。この時の東北訪問時には手形の手配が間に合わず長州藩を脱藩してまで出発しているが、何故かというと同行者の盛岡藩士江幡五郎が関っている。
彼は兄の奥医師、江幡春庵を死に追いやったという田鎖左膳に対する仇討のため盛岡に戻るつもりであり、悲壮な出発を延ばすことが忍びなく松蔭は脱藩して予定の出発を守ったのである。
南部利義を無理やり隠居させた南部利済であったが藩士の中には利儀の復権を求める運動が起こり、春庵はその中心人物だったが捕らえられ獄中で亡くなった。毒を飲んで自殺したという。政争に巻き込まれたといえる。
その江幡五郎だが、盛岡に到着する前に田鎖左膳が病死し仇討ちを完遂することは出来なかった。
なお、吉田松陰については青森県今別町の好衣月一里塚でも触れている。
【写真:里程標があったハイツ グリーンゲーブルズ/紺屋町を望む/菊の司酒造】
赤線:【奥州道中本道】 は現在通行出来ないルートも含まれています。現地に赴く際は、事前の確認をお願い致します。