現在状況;残っていない
説明板;なし
北緯 40.24.47
東経 141.15.57
AL 73m
聖寿寺館跡
馬淵川脇から坂を上りきったところに塚があったという。道路が広くなっており、東塚は昭和初年ごろまでは存在したという。 馬場坂の上なので聖寿寺跡は無関係ということになる。三戸側から行き、府金坂(ふがねざか)を上りきると平坦地に至りそこに一里塚があったという。そこは5mの道幅が9mに広がっている。特に目印は無い。地図に聖寿寺跡を一里塚にしていたが修正が必要だ。
ここだ、という場所の写真は撮れなかったので、南部利康廟(国重文)の写真を撮る。27代南部利直の四男利康の霊屋(たまや)である。
令和元年に調べてみたところ、明治期までは塚はあったようである(南部町パンフ)。
なお、三戸宿から北上すると聖寿寺(しょうじゅじ)館に上る坂の手前に鹿角街道との追分石がある。その付近には新しい奥州街道の石碑もある。
聖寿寺館跡(国史跡)は戦国時代に三戸南部氏の拠点だったところで天文年間(1532~55)までの200年にわたりその居城だった。つまり、今に残る城山公園の前段階の三戸城だ。