写真;街道の松並木
小湊宿から野内宿まで
小湊を出て西進するとやがて標高を下げ海岸部に至る。土屋と呼ばれるこの場所には御番所があり、治安の維持に当たっていた。御番所を過ぎるとすぐ鍵懸坂があり、これを越えると宗家弘前藩領だ。晴れの日には松前半島を望むことも出来る海岸線を進むと浅虫に至る。
浅虫は、古くから湯と共に景色も有名で、湯ノ島ごしに陸奥湾を望み、夕日も美しい。弘前藩主も領内巡視の折たびたびこの地に逗留し、本陣もあった。
難所の善知鳥崎を越えると久栗坂を越え野内に至る。野内には番所と枡形があった。家数は50戸の小さな宿場で、青森からも近くここでの宿泊は多くは無かったのではないだろうか。
浅虫温泉
古くからの歴史がある温泉場。 天文年間(1532~55)の「津軽郡中名字」には「麻蒸湯」とその名前が見える。後に火にまつわる「蒸」の字が忌避され「浅虫」となった。
浅虫温泉のHPには付近の「古戦場」として「1140年に藤原泰衡の家来、大河兼任がたてこもり、源頼朝と戦ったといわれる古戦場。当時は善知鳥崎といわれた断崖の場所で、青森側への要所であったと伝えられています」。との説明がある。
1140年だと泰衡もまだ生まれていないし、頼朝は盛岡の厨川柵までしか来ていないような気もする。要調査である。 ちなみに善知鳥崎は明治にトンネルが開通するまでは街道の難所だった。
平安時代の876年に、円仁が発見したとされる。発見後も麻を蒸すことにのみ温泉が使われていたが、1190年にこの地を訪れた法然が鹿が入っているのを見て温泉への入浴をすすめてから、入浴用途にも使われるようになった。温泉名も麻を蒸すことに由来する。
江戸時代には本陣も置かれ、弘前藩の藩主も入浴した。「柳の湯」がそれで、HPには「津軽藩に直轄された東本陣。当家は代々その本陣管理職、庄屋等を兼ねて仕えてまいりました。「柳の湯」の名称も津軽信牧侯より賜り、特に米十俵を与えられたと伝われる自然湯は、今日まで高く評価されております」とある。
また、浅虫は太宰治、棟方志功などともゆかりがある。 「椿館」が有名で棟方志功の作品も飾ってあるそうだ。ここには太宰治も宿泊したという。
1788年に菅江真澄が、「湯は滝の湯、目の湯、柳の湯、大湯、裸湯などがあり、よく清らかに湧き」と書いていて、12軒ほどの湯小屋があったという。
また、浅虫はねぶた発祥の地と言われているが、青森市雲谷(もや)も元祖と言っているので正確なところは分からない。
写真;野内番所跡
野内代官所・番所
弘前藩の九浦制の拠点のひとつ。
野内駅から2kmほど西に進むと、松のある住宅の庭に野内番所跡の説明板がある。黒石藩の番所で海側が本藩の代官所(奉行所)、青森寄りに進むと弘前藩番所があった。言い伝えでは設置が元和年間(1615~1623)とされる。北は野内川、西は海、背後は山で関所の適地である。
番所自体の広さは二十四間×十四~十六間。2人の奉行が任命され4ヶ月交代で勤務に当たった。同心は3人。享保年間(1716~36)にはこの関所の通過人数は月に100人ほどだったという。
野内の番所は弘前藩にしてみれば対南部藩の最終防衛線ともいえる場所で、弘前藩の番所と共に支藩の黒石藩も番所を設置し、共同で防衛した。ここでは特に事件は無かったが、碇ヶ関(野内と同様な番所)より南の矢立峠では相馬大作事件が起こっているため、幕末などはそれなりの緊張感を持って警備にあたったと考えられる。
さて、江戸ではないので「出女」の調査は無く、藩の特産品が他領に流出することを阻止すべく厳重に改めた。
野内、碇ヶ関、大間越の各番所への通達は以下の通り。
三関所の部
一、 武具、農具、馬、牛、米、大豆、雑穀、金、銀、銅、鉄、唐金、麻糸、鉛、銭、綿、紅、花、漆、皮類、酒、麹、味噌、鷹、蝋燭、鳥、紙、昆布
明暦元(1655)年5月12日
これらの禁制品の流出を取り締まっていたため、口留番所的要素が強い。
野内枡形
野内の御番所から西進すると市立野内小学校がある。その校庭道路側には枡形跡の松並木が残っている。