写真;釜沢の旧道。突き当たりの坂は舗装されるようだ。
金田一宿から三戸宿まで
金田一宿を出て北上すると馬淵川に突き当たり、川に沿うように西に道は曲がっていく。やがて蓑ヶ坂の急坂を登るが、この坂、次のような言い伝えがある。
「蓑ヶ坂の峠を通りかかると風雨が起こり、都合よくそこには蓑と笠が置いてあるという。旅人は拝借するが、この蓑と笠は大ムカデが化けたもので、旅人は沼に引き込まれてしまうという」。なお、ムカデではなく大蛇との伝承もある。
この言い伝えが何を暗示しているかは良く分からないが、雨の際は危険だから峠を越えないように、といった所だろうか。歩いてみると雨の際はかなり危ないくらいの急坂だ。
奥州道中でも難所として有名だったらしい。
そんな難所に苦心し、天気が悪くなると大ムカデに怯えながら道を急ぐ。
写真;蓑ヶ坂案内板。
登りきると駕籠立場(かごたてば)と呼ばれる立場に至る。名前の由来は明治九年の天皇ご巡幸の際、駕籠から降りて絶景を楽しんだためという。ただ、この手前の蓑ヶ坂で既に駕籠から降り馬で登り、駕籠は村人が担いで登ったとの事で、ここではまだ馬に乗っていたのではないかと思われるが・・・・。まあ、それくらい絶景だと言いたいのだろう。現在も明治九(1876)年と明治十四(1881)年天皇御巡幸の記念碑が残っている。
いずれにせよ急坂の後の絶景で旅人はここに一軒あった吉兵衛茶屋で一休みした。
写真;駕籠立場からの眺め。
立場を過ぎると少し勾配がゆるくなる道を下る。現在は切り下げられている部分だが、江戸時代には急坂だった場所を登った所に「駕籠立場一里塚」があった。塚を過ぎ左に曲がり現在の国道4号線の上を交差。奥州道中は一度行き止まるが、脇道を下り4号線に至る。国道沿いに北上した後三戸温泉(今あるか未確認だが)から東の丘に入る。「板坂」「竹林坂」を経過すると同心町から右折し三戸宿に入る。「奥筋行程記」には「松山下リテ漆樹原カゝリ三戸へ入」とある。今は余り漆は無く果樹園(りんご)などになっている。追分石があった同心町交差を左折すると鹿角街道を田子へ向かう。「八日町一里塚」もこの付近にあったようだ。
なお、同心町を通るこの道は寛永年間に通された新道である(今となっては充分古いが)。
三戸宿
安永九(1780)年の調査によると家数は88軒。青森方向へ八日町、二日町、六日町、久慈町からなり、八日町と二日町に問屋場があったという。一ヶ月交替で継立業務を行っていた。高札場は二日町中ほどにあった。
三戸城
三戸城は戦国時代に築城され、南部藩の本拠が盛岡に移ってからは廃城に近い状態だった。移転の経緯は領地が広がった藩の中でほぼ中央が盛岡付近だったためとされる。どちらにしても山城で平和な時代にはそぐわなかったと考えられる。
ただし、宿場としての三戸宿は奥州道中と鹿角街道との分岐点であることから代官所が置かれ栄えていた。