【五郎沼の古代蓮】
石鳥谷宿から日詰郡山宿まで
花巻からの直線はまだ続く。途中の石鳥谷宿を出ると犬渕地区に稗貫郡境の郡境塚列がある。さらに北上すると陰沼一里塚を通る。一里塚を過ぎると西側に五郎沼がある。
この五郎沼、奥州藤原氏の血縁である五郎季衡(すえひら)が好み遊んだ事が名前の由来。その縁からか奥州藤原氏4代泰衡の首桶から発見された蓮の種から発芽させた蓮が沼の隣に植えられている。現地に行くと「古代蓮」の表示がある(時期的には中世だと思うが…)。
街道中いくつかの川を横切るが、この区間、土橋は余り多くなく、歩いて川を渡るケースが多かった。
直線路が終わると、そろそろ郡山宿に到着する。
日詰郡山駅
福島県の郡山宿と区別するため「日詰郡山宿」と呼ぶ場合もある。
本陣があり、代官が詰めていた。現在は紫波町の中心部。舟運の寄航港があり、藩の御蔵があった。そこには、御蔵奉行が勤めていた。
上町、下町、日詰町からなる。この3町が10日ごと交代で宿駅の業務を担当した。花巻宿と同様の輪番制だった。
紫波稲荷街道、遠野街道、そして八戸藩の飛び地であった志和三村の分岐点だった。この八戸藩の飛び地は現在の上平沢、水分にあたる。
現在は度重なる火災により本陣、御蔵、舟場など往時の建物は残っていない。
郡山城跡
もと高水寺城。現在は城山公園と呼ばれ、桜の名所となっている。
明治天皇御巡幸の際に切り開かれた御幸新道の交差点に城山公園の石碑がある。そこから北東700mほど進むと、郡山城に至る。
足利尊氏が1335年(建武3年)南朝方の北畠顕家(あきいえ)や八戸南部氏に対抗するため陸奥守として紫波(斯波)家長を派遣したころ高水寺城として築造された。時は南北朝時代。
南部氏と戦い、一時岩手郡を支配下に置いたが、斯波詮直(あきなお)の時に南部信直に滅ぼされた。
信直は郡山城と改名し、中野康実(やすざね)を城代とした。九戸政実(まさざね)の乱(奥州仕置)から盛岡城築城までの間、二代利直の居城となったが、1667年(寛文7年)盛岡城完成後に廃城となった。
1928年(昭和3年)の陸軍演習で昭和天皇の御野立ち所となった事から城山公園として整備され現在に至る。
【写真;月の輪形】
陣ケ岡
日本武尊、坂上田村麻呂、源頼義・義家親子、源頼朝といった歴史上の有名人が陣を敷いた場所とされる。
日本武尊(やまとたけるのみこと)となると実話か非常に疑わしくなるが、その子の墓も陣ヶ岡にある。
他にも藤原秀衡、安倍頼時、斯波家長、蒲生氏郷なども訪れたといわれる。
義経は平泉の藤原秀衡を頼って奥州に来た当初、紫波の比爪氏に匿われていたといわれ、この地を尋ねた可能性もある、とのネット上の記述もある。
「月の輪形と日の輪形」
紫波町指定文化財『月の輪形』が陣ヶ岡の麓にある。
前九年の役終盤、厨川柵の安倍貞任攻略のため、康平五(1062)年、源頼義、義家親子がこの地に32000の兵を率いて宿営する。
この際月明かりに照らされた源氏の日月の旗が堤に映り金色に輝く。
これを見た軍勢は士気鼓舞し、源頼義は「吉兆なり」と喜び戦勝の礼として日月の像を泰造します
寿永元(1182)年にこの地を訪れた藤原秀衡が日月の像を修造する。このときの像が現在も原型を僅かながら留めている。
形状的には池の中に三日月の形をした島と太陽の形をした島があるためにそう呼ばれている。
【写真;陣ヶ岡歴史公園/陣ヶ岡蜂神社/藤原泰衡首洗い井戸】
【写真;逆さガシワ】
勝源院の逆ガシワ
日詰から一度4号線に出ると、勝源院がある。
そこに国指定天然記念物の逆ガシワがある。カシワは落葉広葉樹で本来直立して成長し、樹高も20mほどになる。
ところがここのカシワは地際で4本に枝分かれしている。この姿が根に見えるため逆ガシワと呼ばれる。
推定樹齢約300年。
枝張 東西 21.8m
南北 27.7m
根本周囲 5m
樹高 12.2m
別名 みだれカシワ
昭和4年12月17日指定
【写真;勝源院】
一方カシワのある勝源院はどういういわれかというと余り資料がない。慶長十六(1611)年に開基した曹洞宗の寺院だという。山門(楼門)は一間一戸の楼門で屋根が入母屋瓦葺きとなっている。
実際に行ってみると交通量の多い片側2車線の道路に面し余り目立たない。それでも逆ガシワの案内板が道路際に出ているので注意していれば見落とすことはないだろう。
雰囲気がある山門をくぐると本堂があり、その後に逆ガシワがある。地面は苔むしてなかなか良い雰囲気。