二基現存
所在地;岩手県北上市二子町
案内板;看板あり
塚木;あり(東塚木は無くなっている)
岩手県史跡
北緯 39.18.40/東経 141.07.22/AL 88m
西塚は塚腰(つかごし)稲荷神社境内で国有地に所在。東塚は個人所有地。このあたりは北上市街に大分近いのだが、住宅団地のはずれといったたたずまい。朝夕は工業団地への通勤で交通量が多くなる。
神社脇に塚が2基対で残っている。2基の下端には高低差がある。西塚は東西12.1m、南北11.1m。塚の裾からの高さ2。3m、道路からの高さ3.5m。塚木はコナラ。東塚は東西13.3m、南北12.7m。裾からの高さは2m。塚木はなし。
説明によれば2基の両塚が2箇所続いている場所は奥州道中では他には無いそうだ。
この付近は明治12年に国道が切り替わり裏街道になったために幸か不幸か塚が残っている。大正期には地域誌にも記載されておらず、この無関心から破壊されずに残っていて何よりである。
令和元年再訪してみた。
上野町を通る道路が現在のメインだが、キオクシア岩手への通勤等で、更に裏道の交通量も増えている。
神社内の西塚は余り変わっていないようだが、東塚の塚木は枯れたのか無くなっていた。
室町時代末期まで黒沢尻地方は和賀氏によって治められていた。その頃の政治の中心は二子の飛馳(とばせ)城で、国府時代の名残として、北上川東部の山間を縫った東海道、胆沢城から六原、岩崎の五台坂を通って二子に向かった松山道、北上川そのものを水道とした三つの道路があった。
ところが、豊臣秀吉の天下統一の際、南部氏が和賀郡まで領したが、住民の断ち切れない旧領主への感傷から南部藩の威令が行われなくなる事に漠とした恐れを感じた盛岡藩は、今までより善政を施し、住民を納得させる必要が生じた。
その一つの手段として平坦道路を開き、文化の中心を変えて民心の一新を図った。それが、二子から鬼柳の白髭神社東側に抜ける藩道で、完成したのが慶長九(1604)年のことであった。
みちのく宿駅の要約
【写真;西塚から東塚を望む/東塚/塚腰稲荷神社】