【写真】奥州道中[1010]
ながふくろいちりづかあと
宮城県白石市
現況;残っていない
案内板;なし
1010 2505加筆修正
【写真】奥州道中[1010]
付近の状況は既に白石市街地といった雰囲気。城下町のせいか落ち着いた雰囲気が漂っている。
街道沿いも道路に隣接し住宅が建ち並び塚の痕跡や案内板は発見出来なかった。
交番付近ではないかとの情報もあったが、付近に交番は見当たらない。
【写真】奥州道中[24010]
ツルハがあるあたりをスタートする。白石上山線は程なく国道4号線に合流するが、そこから宮までバイパス風景で目印は白石ICくらいである。
【写真】奥州道中[24010]
【写真】奥州道中[24010]
【写真】奥州道中[24010]
【写真】奥州道中[24010]
【写真】奥州道中[24010]
【写真】奥州道中[24010]
【写真】奥州道中[24010]
【写真】奥州道中[24010]
【写真】奥州道中[24010]
【写真】奥州道中[24010]
【写真】奥州道中[24010]
【写真】奥州道中[24010]
【写真】白石温麺[24010]
白石興産のHPでは下記の説明をしている。
■白石温麺の誕生
いまから約400年前、白石の城下町にいた大畑屋の鈴木浅右衛門(のちに味右衛門(みえもん)を襲名)という青年により白石温麺は誕生しました。
当時、浅右衛門は胃腸が弱く病弱な父親・久左衛門のため「消化が良く父が元気になる食べ物はないか」と、毎日方々を探し回っていました。
ある日、旅の僧から、油を使わず消化に良い麺の製法を授かります。浅右衛門は、早速麺作りを開始し、苦心の末この麺を作り上げました。
膳に盛った麺を勧めると、食べやすくまことに美味しい麺に父親の食欲は増し、病状も回復していったそうです。
■人を思いやる「温かい心」から温麺と名付けられた
大畑屋の鈴木浅右衛門が作った麺は、評判を呼び、白石の武将片倉小十郎にも献上されました。
味もさることながら、誕生秘話に感銘を受けた小十郎は、「人を思いやる温かい心を持つ麺」という意味を込め、この麺を「温麺」と名付けました。
また、この功績により、浅右衛門は「味右衛門」と名乗ることを許されたと言われています。
江戸時代からある由緒ある食材。「うーめん」と呼ぶ。
端的には短いそうめんといった印象だ。
初代横綱の一人。仙台の農民出身で幼名を与四朗という。伊達藩のお抱え力士だったが、片倉家にも重用された。17歳で白石城中で稽古を行っていた。
安永五(1776)年谷風梶之助と改名し安永十年には大関となる。
当時は大関が最高位だったが、ライバル小野川喜三朗と共に横綱となる。伝説では四代目横綱という説もあるようだが公式記録では初代となる。
勝率は9割5分の驚異的な数字。身長188cm、体重160kg以上。仙台市の勾当台公園には銅像が建っている。