写真;伝法寺一里塚。
五戸宿から伝法寺宿まで
五戸を出ると八幡宮横の坂を越える。現在の国道と同じ道を通る。十和田市に入ると一本松集落で左に国道と分かれ直進し、後藤川を渡って国道の右に進む。その坂は馬返坂(ばっけしざか)と呼ばれた。再び国道の左を通り、伝法寺小学校の東端から再び国道に合流する。再び国道右へ進むと伝法寺宿である。
集落から東側の山中に馬立場跡がある。街道は宿場内の光明寺付近で再び西へ向かい、伝法寺館を過ぎ藤島宿へ向かう。
写真;伝法寺館付近。
伝法寺宿
伝法寺宿は隣の藤島宿と半月交代で継立業務を行っていた。中には宿駅に数えていない資料もあるが、これは規模の小ささからきているのだろう。
写真;光明寺。
伝法寺館
伝法寺館は本丸に旧国道が通るなどはっきりした形状が残っていないが堀の跡が確認できる。戦国時代末の城主は津村伝右衛門。伝法寺川の南側に位置し、東から南にかけては沢、西は堀で、水量豊富な沢や湿地にで囲まれていた要害だった。
元々伝法寺館には日の宮氏が居住していたが、南部氏家臣の津村氏が甲州から下向して本丸に入り、日の宮氏は二の丸に移ったという。そのため本丸を津村館、二の丸を日の宮館というが、現在どちらが東郭でどちらが西郭になるかは不明。
天正十九年3月、九戸党の七戸家国は伝法寺館を攻めたが津村氏は防戦に努め、七戸氏を撃退したという。江戸時代には廃城となっていた。