■鬼柳御番所
「和賀郡誌」等には北には和賀川があり橋が無く、東は北上川、西は田で見通しが良い場所に番所があったとある。
奥州道に沿い枡形を設置したが、18m×9mの大きさ。西手に番所を設けた。文化年間(1804~17)の建物で間口25m奥行き45m。いまは史跡として整備されている。
裏道もあったようで、鬼柳宿の西手の白髭館と観音館との麓を迂回し、本郷堰の上流をわたる。これは裏渡と呼ばれていた。実際の所、関所破りは磔の重罪とはいえ、箱根の関所を除き迂回路通行や関所破りは割と多く行われていたようだ。
伊達亮との境界がはっきりしたのが寛永十九(1642)年、それから3年経った正保二年に南部氏は初めて石巻港に藩倉を置いた。
みちのく宿駅 から
鬼柳にも宿駅があり、検断職は花巻城下の配下がかわるがわる勤めていた。藩境を越えて、伊達藩である鬼柳の関所を通過する事が出来ても、和賀川が増水ともなれば、どうしても足止めされるため、自然に鬼柳の宿場が出来たので、黒沢尻宿の支宿場ともいうべきものだった。ここでは、人馬の宿泊のほか、馬の継立もしたから、南部藩の馬市は鬼柳の宿場外れで開かれていた。