北緯 38.55.58/東経 141.07.57/AL 35m
増補行程記には磐井川の地主町(じしゅうまち)側に一里塚が有ると記されている。 磐井川の幅は50間ほど、土橋が掛かっていたとある。
現在は堤防が有り、塚の痕跡も無い。この堤防、将来はかさ上げする予定で、堤防沿いにある桜並木も大きく様変わりするだろう。
一関は田村家により支配されたが、伊達藩の内分分知大名だった。大名分家には分知による場合と将軍からの所領封与による場合とがある。分知には将軍から領地朱印を交付される別御朱印頂戴の分知と本家の領地朱印の中に俸禄が記載される内分があった。田村家は幕府の直参で旗本格。
写真;山吹棚田 棚田100選