写真;八幡宮鳥居。登ると浅水城跡。
三戸宿から浅水宿まで
奥州道中を北上すると「馬場一里塚」に至る。坂を下ると鹿野街道が分岐する。川を渡ると再び坂を登り、聖寿寺館跡に至る。南部公霊屋が近くにあり。
「高山一里塚」「佐野一里塚」は現在の国道からは大きく外れ、山を2つ越える。現在は旧街道の案内板が整備されている。高山一里塚付近では「安達が原の鬼婆伝説」が伝わっている。これは福島の黒塚伝説と相似した話だ。高山~浅水には水梨清水がある。
やがて、舗装道路に出るとそこが浅水宿だ。かつては浅水城があり要害の地だったが、現在は小集落といった趣。幕末には商人宿2軒、往来宿1軒があったという。本陣などはなかったようだ。また、専門書の中には浅水を宿場と数えていないものもあるという。
浅水城
浅水城は永正年間に南部氏22代政康の三男長義が三千石を賜り築城したといわれている。浅水氏を名乗ったが三戸城の南に館が有った為、南殿とも呼ばれた。
九戸政実の乱の際、櫛引氏は浅水城を攻めたが南氏はこれを待ち伏せて撃退、櫛引氏は敗走する。ただし深追いした南氏は法師岡館付近で壊滅、討死した。
その後南氏は跡継ぎに恵まれず断絶するが南部利直は南部利康に南の名跡を継がせる。しかし利康は若くして病死する。その後南氏八代以降の系図は不明で、盛岡に移住したとも言われる。浅水城も廃城となっている。
現在、八幡宮の参道が城址の入り口となっている。
なお、利康の廟は父利直により造営され、南部公霊屋として国重文に指定されている。