現在、盛岡の中心地は大通、中央通りから盛岡駅に至る地域だが、これは東北本線の盛岡駅が北上川と雫石川に囲まれた場所に出来た明治時代以降の事。江戸時代の菜園、大通りは湿地帯だった。
盛岡駅は仙北町付近の計画もあったが、蒸気機関車の噴煙からの火災を恐れた住民の反対で現在地に決まったとか。
では、江戸時代の商業地はどこかというと、いわゆる河南地区だ。今の中ノ橋通り付近である。
盛岡城
立地的には東の中津川、南の北上川を天然の堀とした平山城で、城内に十分な石材が埋まっていたため、東北の城としては珍しく、立派な石垣を特徴とする。
河川を堀とする点は、防御に適した方法ではあったが氾濫も多く、後に蛇行していた北上川を現在の形に河川改修をしている。その為、かつて川だった菜園は長く湿地帯だった訳だ。
縄張り(配置計画)は大阪城を参考にしたもの。
奥羽仕置により奥州に来ていた蒲生氏郷や浅野長政の助言が不来方での築城のきっかけとなった経緯もあり、豊臣秀吉的な西国城郭の特徴を備える。
彦御蔵(ひこおくら)
江戸時代後期に建てられた蔵で、盛岡城内では唯一現存する建物。10間×5間の総二階。漆喰塗りの外壁で屋根は瓦葺き。
元々100m程西に有ったが、道路拡幅により現在地に曳家(ひきや)された。現在地は米内蔵が有ったという。
確かに平成初期にはかなり道が狭かった。下ノ橋も大沢川原も狭かったが。
盛岡八幡宮
河南地区の八幡町は盛岡八幡宮の門前町。八幡町を東に進むと八幡宮の鳥居に至る。
盛岡八幡宮のHPを見ると、「盛岡八幡宮は今から300年以上昔の延宝8年(1680)、第29代南部重信公により建立されました」とある。
元々鳩森八幡宮が有った場所にこの時、南部氏の氏神である櫛引八幡宮を勧請している。品陀和気命(第15代応神天皇)が祀られており、生活に関わるあらゆる御利益があるとされている。
盛岡市民には総鎮守として最もポピュラーな神社だが、その社殿は平成9年12月に建て直されたもの。明治17年(1884)の盛岡大火などの災害や永年の風雪被害を受けかなり痛んでいたという。
山車が繰り出す例大祭(盛岡秋祭り)や初詣時期は大変賑わう。
開運橋
最近は余り聞かないが、開運橋は「二度泣き橋」の別名を以て語られる事がある。こんな田舎に来てしまったと一度泣き、盛岡を離れる時に寂しさから二度泣く。昭和の転勤族がルーツの話のようだが、東京まで新幹線で3時間の現代ではピンと来ないかも知れない。
令和元年には開運橋脇の木伏(きっぷし)緑地にPFI事業により、公衆トイレと洒落た店舗(主に飲食店)が整備され、賑わいが創造されている。
東京オリンピック
2020年は東京オリンピックだが、復興五輪との位置付けもあり、令和元年には前回の東京五輪の聖火台が巡回した。
盛岡ではみたけの県立運動公園にしばらく設置されていた。
櫻山神社
櫻山神社HPやwikiによると、以下の歴史がある。
「創建から江戸時代後期
江戸時代中期の寛延2年(1749年)、盛岡藩第八代・南部利視により盛岡藩初代・信直の遺徳を偲び、盛岡城内淡路丸に神殿を建立、同年9月26日、その神霊を勧請して「淡路丸大明神」と奉ったのに始まる。
盛岡藩第十一代・利敬が文化9年(1812年)8月13日に「櫻山大明神」と改称。その後、利敬は同15年(1818年)4月に南部家初代・光行を合祀した。
明治時代
盛岡城が明治政府に接収された後、明治4年(1871年)9月、御神体を岩手郡加賀野村妙泉寺山(現・盛岡市)に仮遷座、同10年(1877年)5月20日に盛岡・下北山の聖寿禅寺跡に新社殿を造営し再遷座した。明治14年(1881年)1月、県社に列格。
明治23年(1890年)、旧盛岡城地が南部家に特別縁故によって払い下げられたことを契機に、旧盛岡藩士族また旧盛岡藩領民より、旧城地への遷座の機運が盛り上がり、盛岡城旧三の丸・鳩森下曲輪跡に明治32年(1899年)神社敷地を造成、今日にみられる本殿、拝殿、神門が建てられた(wiki)」
神社の門前には、戦後のヤミ市を由来とする商店街があり、主に飲食店が集積している。
新山舟橋
赤線:【奥州道中本道】 は現在通行出来ないルートも含まれています。現地に赴く際は、事前の確認をお願い致します。