■有壁宿
有壁宿に入り有壁川を渡ると有壁宿に入る。
一関にはおよそ二里の距離。
「風土記御用書出」によると五町四間で家数88軒うち町屋74軒。寛文七(1667)に新町を増設している。
有壁宿は、古い家が多く庭先の木々も樹齢を重ねているせいだろうか、落ち着いた雰囲気でよく宿場の面影を残している。何より旧本陣跡が付近の空気を引き締めている。
旧有壁本陣跡は参勤交代の際に藩の重臣が宿泊や休憩をした場所。ここより北の松前藩、八戸藩、盛岡藩、一関藩の藩主が利用した。一関藩などは出発後間もないが、ここでの休息が定めとなっていた。
元和5年(1619)創設だが、現在の建物は延享元年(1744)に大火の後大幅に移設改築されたもの。国史跡(昭和46年指定)で宮城県県指定の有形文化財。「道路に面して二階建の長屋、わきに御成門がある。本屋は約340㎡、居宅部と本陣・宿泊部から成る。御成門から、入母屋造で式台の付く堂々たる玄関に導かれる。大名用の座敷は奥から上段、次の間、さらに鉤の手に中座敷、玄関と続く。居宅部は座敷・寝間・広い茶の間・大台所で構成される広間型3間取りからなっている。」宮城県HP
なお、本陣の母屋まで残っているのは奥州道中ではここだけ。平成19年10月現在内部の改築で公開を停止している。
街道筋の新町、本町は戸数の割に農地が少ない。
有壁本陣の助郷「流れの郷」といった花泉町の15ヶ村、一関田村藩領内の東磐井郡11ヶ村から、規則に従い、それぞれの上納高に応じて人馬を徴収した。50人、50匹、或いは100人、100匹と割り振りの数字は決まっており、このような課役により働き手は奪われ、女子、子供だけがかろうじて農業を守っていたため、米は少なく、窮状によりより一揆が頻発した。
この地を通った大名は、松前、八戸、盛岡、一関の藩主であった。
大名は宿泊する期日は、数か月前に宿役人あてに先ぶれを出し、数日前になると道中方の家臣が来て宿割りをする。すなわち、大名及び直臣の泊まる本陣と、家臣の泊まる下宿と賄い料を取り決めるのであう。
当日になると、大名の名前と月日を書いた「関札」という木札を門前に立て、泊まる大名の定紋を打った幕を張り、定紋入りの提灯を立てて迎える。
いよいよ行列が近づくと、一里半ほど離れた所にいた見張り番「一里半、一里半」と知らせ、やがて宿の入り口の見張り人が、「お宿入り、お宿入り」と告げると、宿役人や本陣、脇本陣の主人たちは平伏して迎え、行列を先導して本陣に案内し、上段の間に導くのである。
この本陣も平日は幕府及び藩の巡検使など公儀役人、宮門跡なども休泊させ、幕末になると蝦夷に備えて北方警備に赴く武士も足を留めている。特に維新前夜には急激に休泊者の数は増え、あわただしい動きがあった。
「みそ、しょうゆ醸造元有壁本陣」としてその名をつ立てていた。本陣当主は佐藤氏。
なお、有壁は合併前は萩野村。