【写真】奥州道中 東北自動車道アンダーパス付近[2412]
〇〇いちりづかあと
宮城県栗原市
現況;残っていない(場所不明)
案内板;なし
2503加筆修正
【写真】奥州道中 東北自動車道アンダーパス付近[2412]
増補行程記では赤坂より南側に一里塚が描かれている。
宮城県歴史の道調査報告書にも記載は無い。
現在も特に痕跡は無い。
塚どころか赤坂を越えたあたりにあった「小草履町」という間の宿も痕跡は残っていないとある。
ちなみにこの付近、築館ICで奥州道中は分断されているが、北側の街道筋も山間の舗装林道という趣で、特に目立った建物もない。
【写真】奥州道中[2412]
東北自動車道で街道筋が分断されているあたりをスタートする。途中、小草履町という間の宿があったというが、築館まで特徴は無い道が続く。
築館の国道4号線はバイパス化されており、ここに一度合流してから再度市街地に入る。小学校や八幡神社、栗原合同庁舎を過ぎると再び国道4号線に合流。街道筋は4号とはずれているが一迫川を越えるには国道に戻るしかない。
そして、再度旧道に入るが、先には代官所跡がありその付近が築館一里塚跡のようである。
【写真】奥州道中[2412]
【写真】奥州道中 栗原市立築館小学校[2412]
【写真】奥州道中 築館八幡神社[2412]
【写真】奥州道中 築館八幡神社[2412]
【写真】奥州道中 築館八幡神社[2412]
【写真】奥州道中 医王山 双林寺[2412]
【写真】奥州道中 築館宿[2412]
【写真】奥州道中 築館宿[2412]
【写真】奥州道中 築館宿[2412]
【写真】奥州道中 築館宿[2412]
【写真】奥州道中 築館宿[2412]
【写真】奥州道中 宮城県栗原合同庁舎[2412]
【写真】奥州道中 国道4号線[2412]
【写真】奥州道中 国道4号線[2412]
【写真】奥州道中 [2412]
豊臣秀吉の奥州仕置では志田、遠田、加美、玉造、栗原五郡の領主である大崎義隆(源頼朝時代からの由緒ある家柄である)は所領を没収され追放されている。
秀吉の小田原攻めに参陣しなかったためだが、この頃大崎領は伊達政宗との抗争に敗れ、領域は伊達藩の馬打地同然となっていた。実質伊達藩の支配下となり本人は参陣したくとも独自の行動が取れなかったのである。
没収された領地は秀吉近臣の木村伊勢守吉清と弥一右衛門の親子の領地となるが、太閤検地により既得権益を奪われた旧領主達の不満は納まらず、奥州仕置軍の浅野長政勢がこの地を去ると同時に一揆が発生する。
蒲生氏郷とともに伊達政宗が鎮圧に当たるが、政宗自身に一揆煽動の疑いが掛かり、秀吉への弁明が認められたものの会津などを没収され、代わりに遺恨の残る旧葛西大崎領が与えられる。
この間大崎義隆は秀吉に家名存続を嘆願し、かつての1/3の領土回復を認める御朱印状の入手に成功していた。が、政宗入部により反故となり、旧領の回復は失敗している。
実際にこの一揆は木村吉清を追い出し40万石とも言われる葛西・大崎領を入手しようとした政宗の策略だとの説が有力である。ただし旧領は没収されたのでトータルではマイナスである。
なお、葛西領については岩手県前沢宿で触れている。
【写真】サンファン館「写真提供:宮城県観光課」石巻市
江戸時代初期の仙台藩士。伊達政宗の家臣。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、ローマでは貴族に列せられた。幼名は与市、初名は六右衛門長経、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ[ウイキペディア]。
いろいろ謎も多いが、貿易のために幕府の了解も得てヨーロッパに渡ったが日本のキリスト教環境が悪化し、扱いに困る存在になってしまったようだ。帰国後は余り目立たず生涯を終える。
後日移動予定トピック
仙山線 通町駅(1937廃止)→仙台市電 杜北仙台駅(1951休止)→東照宮前駅→八乙女駅→七北田駅→山ノ寺駅→陸前大沢駅→黒川小野駅→富谷駅→志戸田駅→吉岡駅→大童駅→大衡駅→本町駅→王城寺原駅→加美一ノ関駅→西四竈駅→四竈駅→鳴瀬川駅→加美中新田駅→西古川駅
このトピックは後日吉岡に移動する予定。