■前沢宿から水沢宿へ
前沢は前沢駅東のバイパス側にジャスコなどのロードサイド店が出店しているが、奥州道中は前沢駅西側の旧市街地を通っている。そこを北上すると二十人町の前沢一里塚を過ぎ岩堰川を越え、古城を進む。平坦地である。やがて折居一里塚を過ぎると台地に上りその上を通過する。現在も古い道が残っている。標高を下げると真城一里塚に至るがここから水沢城下に入る。江戸時代には一国一城令のために要害と称したが実質的に城下町である。
■水沢宿の歴史
水沢には源頼朝による奥州藤原氏滅亡後は鎌倉幕府の代官が置かれていたが後に葛西氏の支配地となっている。この頃に水沢城が胆沢平野支配の拠点として築城されている。
戦国時代末期には伊達氏と同盟した葛西氏だが、伊達氏からの当主受け入れなど、その影響は強まっていき政宗の頃には葛西領は「伊達の馬打ち」と呼ばれる程で伊達氏の準領土となっている。葛西氏は徴税権を確保するものの伊達氏が葛西家の軍事指揮権を掌握した。実質的に伊達家の家臣に近い位置付けとなっていたといえる。[前沢宿参照]
小田原に参陣しなかった葛西氏は豊臣秀吉に取り潰され(奥州仕置)家臣の木村吉清に葛西領を与えた。伊達政宗は暗躍し、旧葛西領、大崎領で「葛西大崎一揆」を蜂起させた。だが、この画策は秀吉の知るところとなり逆に一揆鎮圧の命令を受けることになる。政宗は、木村吉清を救出、一揆を鎮圧した。ちなみに九戸実政の乱もこの時期である。
鎮圧はしたが結局、伊達家ゆかりの伊達郡と領土を拡げていた会津地方は没収され、政宗に対し遺恨の残る旧葛西、大崎領が与えられた。こうした経緯で現在の奥州市付近は、仙台藩の領地となる。当初、水沢には代官が置かれていたが、後に政宗の従兄弟にあたる留守宗利の領地となる。以後は留守宗利を祖とする「水沢伊達氏」の所領として幕末まで230余年間続く事になる。なお、留守宗利は父、留守政景(政宗の叔父)の代から「伊達氏」を名乗っている。
江戸時代には胆沢郡水沢は宿場町として栄えた。奥州街道が南北を通り手倉街道、盛街道も分岐する交通の要衝であった。水沢城は四つの郭を二重の掘で囲んでおりどこから見ても城郭だったが一国一城令により水沢要害と名称を変えている。勿論留守氏の本城である。
城を中心に家臣を配し、奥州街道沿いは商家町とし経済的拠点とし、その外側(東側)に寺院を集め寺町を設置。これは戦の際の緩衝地帯でもある。
1872年、廃藩置県により、胆沢県、江刺県設置。その後、県合併により同年11月に一関県、同年12月には水沢県となる。
2006年(平成18年)2月20日 - 水沢市・江刺市、胆沢郡前沢町・胆沢町・衣川村が合併し、奥州市が誕生。
水沢市からは多くの偉人が輩出されており、特に高野長英、斎藤實、後藤新平は水沢三偉人としてそれぞれ資料館や生家など史跡も多く残されている。
■水沢宿
■後藤伯記念公民館
日本で初めての「公民館」として知られている。
昭和16年(1941)11月に建設され寄贈されたもの。寄贈者は後藤新平と親交があった当時の読売新聞社社長正力松太郎であって、新平の13回忌にあたって、個人に対する旧恩感謝の意をこめて贈られたもの。
その後、水沢市公民館として利用され、平成13年10月から「水沢市後藤伯記念公民館」となっている。
■水沢三偉人
水沢三偉人は高野長英、後藤新平、斎藤實。
■後藤新平旧宅
後藤新平生家。管理の大変な茅葺き屋根で維持している。水沢区武家住宅資料館近く。
■武家住宅資料館
奥州市武家住宅資料館。今でいえば平家5LDKでかなり広い。囲炉裏に火が入っていていい感じ。
■奥州宇宙遊学館
奥州宇宙遊学館。水沢緯度観測所の本館が奥州市体験施設になっている。ちょっとどういう施設か分かりづらいがここは歴史ある木造2階建て(大正10年建築)の建物を感じるのが正しい姿かと思います。