読書遍歴(23-6)
結びーWWⅡから冷戦まで
「第二次世界大戦から冷戦まで」と題して5回にわたって拙文を掲載させていただきましたが長い期間にわたるうちに、読みにくい箇所が生じていました。そこで本文の趣旨をあらためて説明させていただき、かつ補足的なコメントを加えることにしました。
本稿は当ネットワークに掲載した後に「新三木会々報」に転載されました。ご承知のように、もともとは私の若年時からの読書遍歴を回顧したもので、その23回目が「第二次世界大戦から冷戦まで」でした。(会報の「我が読書遍歴」と高く構えた標題は私の意図したものではありませんでした。)
またこのシリーズとは別個に新三木会々報には同会の主催した講演会の演題に沿う形で「日米開戦、なぜ回避できなかったのか」、などの太平洋戦争に関する文章も寄稿しており、ヨーロッパにおける第二次世界大戦(WWⅡ)の大筋を新三木会々報にも掲載して太平洋戦争をWWⅡのグローバルな視点の下に置き直すことにも意義があると考えたのでした。
ところが文章を纏めているうちに本来の「読書遍歴」という筋書きが置き去りにされそうになっていることに気が付いたのです。そもそもWWⅡの大筋を提供してくれたA.J.P.テイラーの“The Second World War” は、「第二次世界大戦」でありそれが「読書遍歴」の主題となるべきものでした。しかし同書の内容はWWⅡの中にその後に続く冷戦の萌芽があったことを示してもいました。標題を「第二次世界大戦から冷戦まで」としたのはその為でした。
しかしアラン・テイラー教授がWWⅡ後30年を経て完成した戦史にも、なおカバーしきれていない領域がありました。それは例えばヒトラー最後のあがきとなった激烈なベルリン攻防戦でした。これにはどうしてもはっきりしたソ連側の視点が必要でした。『ジューコフ元帥回顧録 革命・大戦・平和』はその穴を埋める実に貴重な文献と言えます。当然ながらソ連邦崩壊後に明らかになったことも少なくありません。未解決のまま残るだろうと言われたヒトラーの遺体の行方がほぼ明らかにされたのはその一例です。
日米の戦闘が文字通り「太平洋」戦争であったのに対してヨーロッパに於けり戦闘はほとんどが陸上戦であったことに気がつきます。もっとも熾烈な戦闘の行われた独ソ戦は主として戦車が重用された陸上戦であり、天候に左右される航空機はその進撃に対抗する手段のようでした。
英米連合軍はノルマンディ上陸作戦に対独戦の成否を賭けたと言うことができます。チャーチルは、ダンケルクで大陸から追い落とされて多大の犠牲を払った経験から大陸上陸作戦に消極的でした。戦時財政と軍需資材の供給を過度にアメリカに依存するイギリスはアイゼンハワーの指揮する上陸作戦に追随したのであった。大西洋、地中海に展開された洋上戦でのドイツのUボートの華々しい活躍が知られていますが、それはアメリカからヨーロッパ(イギリスおよびソ連)への大量の物資の輸送を阻むための搦手の戦闘であった。
太平洋戦争では沖縄で激しい地上戦が行われた。忘れられがちだがアメリカ軍は詳細な日本本土上陸作戦(Operation Downfall)を練っていたが、もしポツダム宣言の受諾がなくそれが実施されていたならばヨーロッパの地上戦の二の舞いになったはずである。しかし、この「イフ」にどれだけの意味があるだろうか。松代に大本営と皇居を移すべく巨大な壕が掘られほぼ完成していたが、戦後は長らく忘れられ、後世に残されるべき巨大な戦時遺物以上のものではなかった。広島、長崎、東京は言うまでもなく、日本の主要都市の多くは地上戦を待つまでもなくすでに灰燼に帰していた。
これを英米連合国の側からみたらどうであろうか。最大の犠牲を払ったのは上陸作戦である。アイゼンハワーはノルマンディの4つの上陸地点のうちの「オマハ・ビーチ」だけで5万人の兵の戦死を見込んでいたという(後述『映像の世紀』)。沖縄を挟む硫黄島やサイパンの上陸作戦で払わねばならなかった犠牲を考えれば、スターリンが早期の対日参戦を確約したことにルーズベルトが内心小躍りしたということは十分に理解できる。
ヨーロッパの大会戦の多くは歴史書や映画などに個別に取り上げられて広く知られている。「第二次世界大戦から冷戦まで」はそれらの大会戦を線でつないで全体像に達するための試みであった。日本でもよく知られている泰緬鉄道建設は日中戦争の一側面を飾るエピソードに過ぎないと見られるが、デヴィッド・リーン監督の映画の成功のせいばかりでなく、使役された英豪の多くの捕虜たちの回顧録や映画、さらには小説などによって今に至っても人々の関心を引き付けている。第二次世界大戦を歴史として理解しようとする者にとっては、かき分けて進まねばならない叢は深いと言わねばならない。大衆の意識の世界に投影され、細部に降り立った数多くの描写を前にするとWWⅡを統一的な戦史として纏め上げることは至難の業と言わねばならない。
英語に広く使われる“take” という単語がある。それを名詞として用いた中の一つに ”a particular version of or approach to something” と説明されるものがある。カメラを止めずに行った一回分の撮影もこれに当り、日本でも映画制作の現場で英語のまま「テイク」という言葉で使われている。テイラー教授などの西側の歴史家たちの“テイク”もそれぞれ一様ではないが、ジューコフ元帥の東部戦線からの”テイク“が貴重なものであることは先に述べた。
「読書遍歴」の視点ももう一つの”テイク“であり得た。しかし短期間の作業であり、広く渉猟するだけの余裕もなく、僅かにイリヤ・エレンブルグの『パリ陥落』や回顧録、さらにはアラン・ムーアヘッドの『砂漠の戦争』、『神々の黄昏』などを列挙するだけに止めざるを得なかった。
映像による記録は『スターリングラード』を別として今回初めて『バルジ大作戦』と『空軍大作戦』(Battle of Britain)の2本を見た。『バルジ大作戦』には戦車戦がどのように展開されたかがリアルに描かれており活字に映像の迫力を加えるものであった。ポーランドの映像作家アンジェイ・ワイダ監督の『地下水道』、『灰とダイアモンド』はポーランドの悲劇を描いて芸術作品の域に達するものであった。『史上最大の作戦』はいずれ見たいと思っている。
「第二次世界大戦から冷戦まで」を新三木会々報に掲載した直後にNHKの長期シリーズ「映像の世紀」の一環として『ヨーロッパ、2077日の悲劇』が3回にわけて放映された。当時のモノクロの映像を最新の技術でカラー化したものという。私はこのNHKの映像による“テイク”の最終回『ノルマンディ以後』を偶然見ることができた。
ノルマンディ上陸作戦、ヒトラー暗殺未遂事件と首謀者の大量処刑の報道に続いて、45年3月に久々に人前に現れたヒトラーの映像があった。ヒトラーは暗殺未遂事件で負傷した右腕を使えず背中に回した手首は絶えず痙攣しているのが写し出されていた。フランス駐留のドイツ軍はノルマンディ上陸戦後7日で降伏した。ノルマンディ以後急激に表面化したフランスのレジスタンス運動はナチスと好(よしみ)を通じた女性を丸坊主にして見せしめにした。解放されたダッハウ収容所の光景もあった。
後に映画『日の当たる場所』で評判を呼んだアメリカのジョージ・スティーヴンス監督は解放後のダッハウを従軍カメラマンとして訪れた1人で「私はどんな人間にもナチを感じる。飢えた囚人に抱きつかれても嫌悪しか感じない」と述べたという。『日の当たる場所』はセオドア・ドライザーの『アメリカの悲劇』が原作だという。かなり昔に読んだ角川文庫で4冊に及ぶ大著が私の本箱の隅に眠っていた。記憶は完全に消えているが、人間不信の書であったのだろうか。これも「読書遍歴」に加えるべき一冊として記録しておきたい。
「ムッソリーニのイタリア」
戦史に類するものはできるだけ広範に取り入れたいという意図をもっていたが、手が届かないままに残されたトピックも幾つかある。レーダーを始めとする科学技術の果たした役割、戦争の帰趨を左右する諜報戦、ナチス支配下の国々のレジスタンス活動などである。レニングラード包囲戦の生んだ言語に絶する悲劇には一言も触れていないが「全体像」というからには欠かすべきではなかっただろう。“Battle of Britain”(英本土防衛の『空の戦い』)を始めとする空の戦いについて記述の乏しいことも気にかかっていた。太平洋戦争の海の戦いは同時に空の戦いであった。ホロコーストも視野に入れてしかるべきであったかもしれない。ヒトラーの最大の関心事は人種問題であった。三国同盟の一角をなした枢軸国イタリアの動静についてほとんど触れずじまいであったことには理由があった。イタリアは、軍事的にも政治的にもこれという役割をはたしていないのである。テイラー教授の「第二次世界大戦」での言及も乏しい。以下のイタリアに関する記述は主として同教授の”The War Lords”(戦争指導者たち)からのものである。
1939年9月、ドイツと英仏連合軍の間で戦闘が開始された時、ムッソリーニは、ドイツの味方ではあるが参戦には3年早すぎると述べてヒトラーの了解を得ていた。しかし、その9カ月後フランスが崩壊するのを見て参戦を決意した。イタリアの国王、将軍、外相はすべて戦争に反対であった。
ヒトラーはファシズムの先達であるムッソリーニを自分と同格と見なして敬意を表していた。しかしムッソリーニは国内の政治を十分にコントロールしていなかった。ノルマンディ上陸作戦が決行される以前、イギリスが相手として戦ったのはドイツではなくイタリアであった。イタリアはアルバニアを併合(1939年4月)した勢いを駆ってギリシャへの侵攻を図ったがたちまち追い戻され、ドイツは援軍を派遣しなければならなかった。事実かどうか疑わしいが、ヒトラーはギリシャ戦線へ援軍を送らねばならなかったために、ソ連侵攻の日程が遅らされたと主張している。ドイツはギリシャに続いてユーゴスラヴィアを完全に制覇した。
ムッソリーニの失敗はこれだけにとどまらない。イタリアはアビシニア(現エチオピア)から皇帝(ハイレ・セラシェ)をイギリスに亡命させた後、北アフリカでイギリス軍に戦いを挑んだが、相手にならずアフリカ戦争はロンメル将軍の率いるドイツ戦車隊に引き継がれた。
「英国の戦い」(”Battle of Britain”)
イギリス軍はアフリカでドイツの戦車隊に勝利した後、シシリー島を経てイタリア半島に上陸し、後にアメリカ軍もそれに加わった。A.J.P.テイラー教授はイギリス軍がなぜ北アフリカで戦ったかの理由として独特の辛口で「そこに軍隊がいたからだ」という。スエズ駐屯のイギリス軍である。イギリスの遠征軍は大陸から追い出されたがエジプトには軍隊が駐留していた。軍隊がそこにいるからには止まって戦うべきだというのである。
チャーチルの英断というべきものの一つはそこに増援部隊を送り続けたことである。フランスが陥落し、イギリスが大陸の拠点を失った以上、イギリスは戦争を続けるべきだろうか。イギリスの政界上層部の動揺は大きかった。当時は知られなかったことだが、1940年5月末、ムッソリーニを仲介にしてドイツとの講和を図ることが閣議で議論された。これに強く反対したのは労働党のアトリーとグリーンウッドの2人でチャーチㇽもこれに同調した。テイラー教授は、この講和を求める動きは本土防衛のための”Battle of Britain”(空軍による国土防衛戦)の勝利が決するまで消えなかったという。
ここでイギリス国民を奮起させ、その戦意を高揚させるのに大きな力があったという ”Battle of Britain”の概要を示しておくことにする。
ダンケルクの勝利の後7月21日、ヒトラーは陸海空の三軍を集めて英本土上陸作戦を協議した。ドイツはノルウエー戦で船舶を失っており、海軍を強化するには時間を必要とし、既存の船舶を徴集しドーヴァーに兵を送り込むだけでも9月15日まで待たなければならなかった。ヒトラーは、念頭にソ連への電撃作戦があるために英本土上陸作戦には十分に乗り気ではなかった。
ヒトラーが8月1日に空軍に発した命令は「英国を屈服させるに有利な条件を作り出すこと」であった。しかしゲーリングは空軍独自の働きで英国民を恐怖に陥れて降伏に導けると信じて戦闘機に護衛された爆撃機の大編隊を英本土に送り込んだ。彼らは英国の艦船を攻撃せず、ドイツ陸軍が上陸作戦に必要とする港湾施設や飛行場を破壊した。致命的だったのはイギリス空軍の持つ戦闘機の威力を見損なっていたことである。
迎え撃つイギリス側としては、意気は盛んであってもこれという防衛手段はなかった。英仏海峡があることを忘れて、すぐにもイギリスの田園をドイツの戦車が走り回る様子を目に浮かべだ。時代遅れの槍や弾丸のないライフル銃を手にした国土防衛軍が道路に障害物を積み上げたりした。チャーチルも「一人一殺」を思わせるスローガン(”You can always take one with you.”)を打ち出すところであった。まさに「竹槍では勝てない」という状況が現出した。今でもイングランドの南海岸には往時の防塁が散在している。
陸軍の首脳には装備の弱体な数えるほどの連隊がひとたび上陸した独軍に対抗できる自信はなかった。海軍も、将来の海戦に必要となる戦闘艦を使って上陸を防止できるとは思えなかった。参謀本部の結論は「すべては空軍に懸かっている」であった。” Battle of Britain” とは字義通りには「英国の戦い」である。それが実質的には「空の戦い」に転じたのである。われわれはその結末を知っている。しかしこのような追い込まれた状況を知って初めてその勝利がどれだけ英国民を鼓舞したかを知ることができる。
航空機の戦力を比較すればドイツ空軍(Luftwaffe)はイギリス空軍(RAF)の2倍の規模であった。しかし爆撃機の能力は戦闘機に防護されて初めて発揮される。両軍の戦闘機の機数は同等であった。しかしイギリスは航空機の生産に励み、保有機数を減らすことがなかった。イギリス空軍がホーム・グランドで戦うのに対してドイツは航続距離の限界で戦わねばならなかった。イギリスは航空機の動きを察知するレーダーを効果的に使うことができた。(ドイツ軍は別種のレーダーを持っていたが艦船の発見に使われただけだった。)
ドイツの爆撃機には爆撃を挙行するか群がる戦闘機に立ち向かうかの迷いがあるのに対してRAFの戦闘機はひたすら爆撃機を撃墜することに専念した。結果としてイギリスはドイツよりも多くの戦闘機を失ったがドイツ空軍の爆撃機に与えた多大な損害に比べれば僅かな犠牲といえた。
ドイツの空爆作戦は8月13日に開始されたが悪天候のため2日遅れた8月15日から9月15日の1カ月間に及んだがこれは以下のように三つの局面に分けられる。8月15日、1日の機体の損失はドイツ75に対してイギリス34。第二の局面に入ってドイツ軍はケント州の前線飛行場を攻撃して多大の戦果をあげた。そして8月24日に異変が起った。居場所を見失った一機の爆撃機が誤ってロンドンを爆撃した。RAFはその仕返しにベルリンを爆撃した。これを契機にして9月7日に第三の局面、ロンドンの空爆が開始された。ドイツ軍はより直接的に英国民のモラールを挫こうとしたのかもしれない。
9月15日に独軍の最後の大空襲が行われた。RAFの26機の損失に対して独空軍は60機を失った。独空軍は制空権を確立できなかった。「空の戦い」はRAFの勝利に帰した。この戦いを通じて独空軍は航空機1,733機を失った、RAFの損失は915機、飛行兵665人であった。気づく人は少ないが、その後も続く都市への無差別空爆はこの第三の局面から始まったのである。
空襲を通じて英国民を実戦に巻き込んだ本土防衛戦(”Battle of Britain”)が国民の戦意を高揚させたことはインパクトの大きさに差はあるとしても太平洋戦争における「パール・ハーバー」に一脈通ずるところがある。テイラー教授は、真珠湾攻撃を山本五十六元帥の天才的な作戦と言い、表立って非難することはしていない。日本の対米宣戦はルーズベルトが仕組んだ罠だという説が一時は根強かったが今では大方は否定されている。テイラー教授も否定に傾いている。ところが彼はまた次のようにも述べる。
「戦争への決定的な一歩を進めたのは日本ではない。それはルーズベルトが1941年に日本に対する石油の輸出を完全に停止したことである。日本は国内に石油資源を持たずオランダ領東インドから、そしてその余の僅かをその他の地域から得ていた。ひとたび禁油が課されれば、その後の18カ月以内に日本の石油は尽きはて、大国としての日本は壊滅することを日本人は知っていた。」
教授はこれを別の箇所で、ルーズベルトの「先付けの宣戦布告状」(a post-dated declaration of war)と述べている。ハルノートに振り回された日本政府ばかりでなくコーデル・ハルにも納得のいく説明ではないだろうか。
「
東西冷戦の浸透
東西冷戦の淵源はボルシェヴィキ革命に遡らねばならない。しかしその新しい判型はWWⅡに形作られた。これまでに本文中で見たように、その萌芽はカイロからポツダムにいたる巨頭会談に現れていた。ポツダム協定は東西間の亀裂を一時的に覆い隠しただけで、ドイツ降伏後もポツダム協定の占領地域に関する条文は守られずに軍事的な既成事実が居座った。
西側はソ連の東、中央ヨーロッパでの政治干渉をポツダム合意に反するものとして非難し不信感を募らせていった。ドイツ統一に強く反対したのは東側ではなく、アデナウアー首相の率いる西ドイツであった。戦後の賠償は東だけが負担し、西は逆にマーシャル・プランの恩恵をフルに享受した。これは壁崩壊時の東ドイツ国家元首であったホーネッカーの言葉である。実際はもっと複雑であるが大筋の話として受け入れてよいだろう。
東西の冷戦の余波は日本にも及んでいたことも記憶すべきであろう。サンフランシスコ講和条約で日本が千島列島を放棄したのはソ連の要望を西側が受け入れた結果であった。またソ連はアメリカが日本に基地を確保し、太平洋上の日本の旧委任統治領を獲得するなどするのを見て心穏やかでなかった。そこで出された地中海への完全通行権の確保という長年の野心は強い抵抗にあったが、マッカーサー元帥の日本統治に対しては上部機構である極東委員会を設けて牽制を図った。極東委員会の存在は新しい日本憲法の制定を早めるという予想外の結果を生んだのであった。(20/08/25)